7c
悪い場所、スーパーフラット、方法
Bad Place, Superflat, Method
【本文確定】
2000年前後は若手の新人よりも、かつて東京ポップを担い、いまや中堅となった世代の活躍に目覚ましいものがありました*7c1。中村政人は1998年にアーティスト・イニシアティブ・オーガニゼーション「コマンドN」を立ち上げ、1999年と2000年には商業地域とアートを連繋する「秋葉原TV」を実施、国内外の大人数の美術家を動員しました。小山登美夫は1996年にギャラリストとして独立し、日本の先行世代の画廊とは違い海外のアートフェアに積極的に出展、当時所属の村上隆や奈良美智の作品を力強く売り出し中でした。椹木野衣は1998年に著書『日本・現代・美術』を上梓し*7c2、日本を「悪い場所」と規定*7c3 *7c4、2000年1月1日をはさむ前後の期間に「日本ゼロ年」展を水戸芸術館で企画し、その「ゼロ」とは既成の枠組みをリセットすることだと言って年長の評論家たちに論争を挑んだ形となりました。
村上隆が2000年を迎える直前に打ち出した「スーパーフラット」という概念からは、二つの意図が読み取れました。一つは、おたく的な現代の漫画のセル画を日本の伝統絵画の平面性と関連づけながら、西洋文脈のフォーマリズムに接続すること*7c5、もう一つは、多様化によりヒエラルキーやジャンルが無効化した日本のポストモダン的状況を、平面的と比喩して肯定することでした。後者は「日本ゼロ年」展における椹木野衣の言葉「あらゆるジャンルで全方位的に」「あらゆる様式はたがいに等価なものとみなされ」ともシンクロしており、日本発の普遍的で有効な新コンセプトとの期待から、美術界を超えて各ジャンルに波及、海外にも知られたキーワードとなりました。2000年4月に刊行された村上隆の著書『SUPER FLAT』(マドラ出版)に所収の「スーパーフラット宣言」では、「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまはsuper flat」と高らかに謳われていました。
同書刊行時には、村上隆のキュレーションによるグループ展「SUPER FLAT」が渋谷PARCOギャラリーほかで開催されましたが、これらはスーパーフラット・トリロジーの第1部とされました。第2部は2002年にパリのカルティエ現代美術館で開催された「Coloriage(ぬりえ)」展、第3部は2005年にニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された「リトルボーイ」展でした。リトルボーイは第二次世界大戦でアメリカが広島に投下した原子爆弾のコードネームであり、敗戦により日本は子供(リトルボーイ)であり続けることをアメリカから強制され続けてきたという村上隆の認識と、それによって生まれた日本のおたく文化やサブカルチャーを逆説的に強みとするという村上隆の発想を示していました。
村上隆は日本では2001年にヒロポンファクトリーを会社化してカイカイキキに改称し、2002年から「GEISAI」を年に2回程度開催*7c6、美術雑誌やコマーシャルギャラリーを巻き込みながら大勢の新人の作品に価格がつく現象を生み出し、多様性の時代に出現した快楽絵画をいっそう世に押し出しました。そして何より村上隆自身が世界で最も注目を集めるビッグアーティストの一人となりましたが、自身の周囲や日本の美術家たちの至らなさ、あるいは微温的な美大の制度等に対し、しばしば父権的態度で怒れるキャラクターでもあり続けています。
かつての東京ポップの担い手たちがポストモダンの徹底に向かうなか、私は独り反対方向に進みました。1996年の特許出願を契機として*7c7、1997年に「文字座標型絵画」と「単一曲線」を発表*7c8、肩書をイラストレーターから美術家に改めることによりヒエラルキーやジャンルの再画定を企図、時代の悪役を買って出ました*7c9。2000年1月1日、詩人の松井茂、音楽家の足立智美の立ち会いで「方法絵画、方法詩、方法音楽(方法主義宣言)」*7c10。2000年2月29日、Eメール機関誌『方法』創刊。2001年3月、第1回方法芸術祭(北九州市立美術館の内外)。足立智美が脱退して作曲家の三輪眞弘を迎え、2002年4月、第2回方法芸術祭(東京、阿佐ヶ谷ギャラリー倉庫の内外)。
「方法主義」には大別して二つの意図があり、一つは新たな還元主義の提示による諸芸術の総合ならぬ連繋、もう一つは多様性と快楽主義という状況に対する拒否でした。新たな還元主義とは、デジタル時代には絵画も詩も音楽も0と1に還元されるため、フォーマリズム的な媒体への還元ではなく方法への還元をアイデンティティとしたことです*7c11。すると総合芸術的な足し算ではなく純粋芸術的な引き算によって、単一方法の露呈による諸芸術の連繋が可能となります*7c12。状況に対する拒否とは、なしくずし的な「何でも有り」の元凶を規範ならびに権威の失墜に認め*7c13、論理の復権から反撃を企てるという、ある意味で新古典主義的なものでした*7c14 *7c15。
【第一版のまま】Artists and those around them of medium standing, who used to be the support and driving force of Tokyo Pop, were more active around the year 2000 compared with the young artists. Nakamura Masato established the Artist Initiative Organization, " Command N" and implemented "Akihabara TV" that were collaborations of projects of art and commercial area in 1999 and 2000. A large number of artists from all over the world joined the project. Koyama Tomio became an independent "gallerist" (gallery owner), and unlike traditional Japanese counterparts, he went abroad and promoted artworks by Murakami Takashi and Nara Yoshitomo in the international market. Sawaragi Noi published "Japan. The Present. Art" and defined Japan as a "terrible place"*7c1. He was invited as a guest curator for the exhibition "Ground Zero Japan," the day of January 1, 2000 was included in the period of which, and he said the "Zero" means to reset the existing framework, challenging senior critics.
*7c1
【第一版のまま】There are two meanings for the " Superflat" concept that was generated by Murakami Takashi just before 2000. One is formalism, where a Japanese Otaku animation cell is connected to a traditional Japanese painting because they are both two-dimensional style. The other meaning is that postmodern Japanese society, where hierarchy and genres are not very effective any longer due to diversification, is metaphorically flat and regarded as an affirmative concept. This idea was synchronized with what Sawaragi said in "Ground Zero Japan": "all directions in any genre" and "all styles are equally valuable" *7c2. Superflat is the topical key word not only in the world of art but also in any genre or times. The book "SUPER FLAT" published in May 2000 includes the "Superflat Manifesto," and its conclusion argues that "Japan may be the future of the world and current Japan is superflat."
【未訳】同書刊行時には、・・・
【第一版のまま】Murakami has been working even more outstandingly since, and exported Japanese Otaku culture rigorously. At the same time, he changed Hiropon Factory into a company organization and its name to KaiKaiKiKi. He hosted the event "GEISAI" twice a year between 2002 and 2006. This made it possible to set the price for a new talent. Also, more "pleasure paintings" were introduced in society.
【第一版のまま】For me, I became a fine art artist and raised a standard of revolt against postmodernism in 1997 from different point of view. On January 1, 2000 I published "Method Painting, Method Poem, Method Music (Methodicist Manifesto)" in the presence of Matsui Shigeru, a poet, and Adachi Tomomi, a musician via emails and New Year's greeting cards. (Please see below.) There were two significant aims: connection with all arts instead of synthesizing all arts, and criticism on the current situation of diversity and hedonism. In order to represent both, a norm as a single principle ought to be reinstated, and now it has been called "method." Methodicism was to impose reducing to "method" itself*7c3. It was modernism in the capacity of reductionism after postmodernism.
【第一版7c3のまま】Formalism during 1960s was about reducing to a form of materials, so every form of art had to be separated. The current situation is completely different as everything including paintings, poems, and music in a computer is now a piece of digital data. The sequence of 0 and 1 enables the present art to combine each other. Having said that, arranging pixels using a set method for paintings, rhyming or standardization method for poems, and contrapuntal method or the law of harmony for music are the identities of each form of art. In other words, a method enables us to identify art.
【第一版のまま】Having stated above, my existing works already contained letters or signs arranging as pixels using a set method, and this was started in 1997. At first, a terminology Methodicism was not yet generated. I believed that a type of fundamentalism, which was identified when AUM Shinrikyo (AUM Supreme Truth religious group) caused a series of disasters in Japan, was another mission of art. Our group (Methodicism group) regularly published the email bulletin "Method"*7c4. Adachi left the group in 2002, and Miwa Masahiro, a composer, joined instead. Until December 31, 2004 we had functioned as a group for five years. Hosting "Method Art Festival" was one example of our activities.
【註確定】
*7c1
読者のために注意喚起しておきます。時が経つと、6cや6dに記したような東京シミュレーショニズムの動向は、あたかも1990年代前半の日本現代美術のメインストリームだったかのように見えるかもしれません。しかしながら当時の感覚ではまだまだマイナーでした。東京シミュレーショニズムの立役者たちがようやくメジャーの側となったのが、本節で扱う2000年前後だったように思います。
【和文確定・英訳可】
*7c2
単一著者により日本の戦後美術史が正面から記述された著作としては、椹木野衣の『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)は3冊目にあたります。1冊目は針生一郎の『戦後美術盛衰史』(東京書籍、1979年)、 2冊目は千葉成夫の『現代美術逸脱史 1945-1985』(晶文社、1986年)、3冊目が椹木野衣で、4冊目が本書です。椹木野衣は、消極的な悪循環が磁場を形成する非歴史的な「悪い場所」では、「日本現代美術」なる領域は成立できないとの立場から、書名を3語に区切り「日本・現代・美術」としました。
【和文やや改変・英文初版ママ】Sawaragi's book, "Japan. The Present. Art" (1998), is about Japanese art history after the World War II, and this is the third book of this type in Japan so far. The first is "The Rise and Fall of Japanese Art After the World War II" (1979) written by Hariu Ichiro, and the second is "Contemporary Art in Japan 1945-1985 -- Art as a Deviation" (1986) written by Chiba Shigeo. Sawaragi's opinion is that there is no such thing as "Japanese Contemporary Art," so the title uses three separate words: "Japan. The Present. Art."
*7c3
私の理解では次のように整理できます。「自爆につぐ自爆」と形容される日本前衛美術史を、帰還不可能なほど徹底したラディカリズムであると、西洋視点から皮肉的に見たのがカトリーヌ・ミレー。相次ぐ自爆による歴史の不連続性を否定的にとらえ、しかしポストもの派の定立を連続性の創出として肯定したのが峯村敏明(と東野芳明)。そして自爆の再帰性を、振り出しに戻る的なあるいは入り口と出口が一緒的な「閉じられた円環」ととらえ、非歴史的な「悪い場所」と否定してみせたのが椹木野衣。もっとも椹木野衣は「閉じられた円環」の語を、彦坂尚嘉のエッセイ「閉じられた円環の彼方は-〈具体〉の軌跡から何を」(『美術手帖』誌1973年8月号に所収)から参照しています(『日本・現代・美術』9-10ページ)。日本の前衛→*2c7。ポストもの派→*4d3。
【和文決定・英訳可】
*7c4
美術評論家の建畠晢は椹木野衣の「悪い場所」を、日本を悪い場所と全否定することによる反語的な日本の全肯定であると解釈し、椹木野衣に対し「脅威を感じる」と私に話したことがあります。椹木野衣の「悪い場所」の概念はその後も拡大解釈されつつ説得力を持ち続け、2011年の震災後には意味内容を更新しつつ、2014年の時点でも黒瀬陽平らによって参照され続けています。
【和文改変・英文初版ママ】 Tatehata Akira, a critic, regarded this as full approval of Japan because he believed what Sawaragi said was irony. He told me that Sawaragi could be a threat as it might be an act of dangerous nationalism.
*7c5
1990年代後半以降の村上隆自身の平面作品に見られるスーパーフラット様式は、ビットマップとベクターの対比で言えば典型的なベクターです。輪郭線(方程式の等式に相当)で形態を決定し、その内側(不等式で示される領域)に色を落とすというやり方は形態派的な「塗り絵」的なものであり、おたく的な現代の漫画のセル画に典型的であるのみならず、浮世絵や狩野派といった日本の伝統絵画の平面性とよく対応しています(西欧ではフィレンツェ派のボッティチェリにも同じ美学が顕れていました)。ここで「平面性」といえばフォーマリズムを思い出さないわけにはいかないのですが、クレメント・グリーンバーグの誤謬によりフォーマリズムは形態派ではなく色彩派、すなわちベクターではなくビットマップの系譜のものとされています。なので一見、平面性を介してスーパーフラットとフォーマリズムが「接続」されるかのようですが、正確には「逆接」です。あるいは見方を変えれば、それゆえただの「フラット」ではなく「スーパーフラット」なのだと言えると私は思います。(グリーンバーグの誤謬については、中ザワヒデキ「絵画から塑像へ」機関誌『方法』第4号、2000年9月。スーパーフラット様式がベクターであることについては、中ザワヒデキ「ビットマップ派VSベクター派」機関誌『方法』第16号、2002年9月。)ビットマップとベクター→*4c2、*8a6。
【和文決定・英訳可】
*7c6
「そのフィーリングを説明すると、例えば、コンピューターのデスクトップ上でグラフィックを制作する際の、いくつもに分かれたレイヤーを一つの絵に結合する瞬間がある。けっして分かりやすい例えではないが、そのフィーリングに、私は肉体的感覚に近いリアリティーを感じてしまうのだ。この本で日本のハイもロウもすべてフラットに並んでいるのは、そのフィーリングを伝えるためでもある」(村上隆「Super Flat宣言」『SUPER FLAT』マドラ出版、2000年4月、4ページ)。
【初校の際に本文内の*7c6の場所を移動予定(ページ一番下に記入済)】【該当箇所をタイプ起こししました】"One way to imagine super flatness is to think of the moment when, in creating a desktop graphic for your computer, you merge a number of distinct layers into one. Though it is not a terribly clear example, the feeling I get is a sense of reality that is very nearly a physical sensation. The reason that I have lined up both the high and the low of Japanese art in this book is to convey this feeling." (Takashi Murakami "The Super Flat Manifesto" SUPER FLAT. Madra Publishing. April 2000. p.5)
*7c7
東京ビックサイトなどの広大な会場で行われるGEISAIは村上隆が主催するアートの祭典で、その名称は東京藝術大学の文化祭の「藝祭」に由来しています。文化祭のような「祭」として出発しながらも2006年9月に廃止されるまで新人の登竜門的な役割を果たし、さらに2008年5月の再開後は、かつての読売アンデパンダン展や日本グラフィック展のようにそこから表現主義的な「芸術のための芸術」が立ち現れる重要な場となったと言ってよいと思います。村上隆自身の立場はチェアマンをもじって「ちあまん」。アンデパンダンと同じく誰でも参加できるがアンデパンダンとは異なり賞があったり主催者側の出し物があったりするなど、さまざまな特徴を有します。ついでながらデザイン史では1950年代から60年代にかけて日宣美展(日本宣伝美術会展)が果たした役割が大きく、1994年スタートのデザインフェスタはデザインに限らない何でも有り的な祭典として大規模に開催され続けています。
【初校の際に本文内の*7c7の場所を移動予定(ページ一番下に記入済)】【和文決定・英訳可】
*7c8
1996年の特許出願は「三次元グラフィックス編集装置および方法」と「造形装置および方法」、すなわち3Dビットマップのソフトウェアとプリンタで、これはビットマップとベクターの問題系を3Dに広げたものでした(それまでのバカCGはジャギーの強調により2Dビットマップを強く意識したものでした)(当時のいわゆる3Dはベクターしかなく、医療用やCADではないグラフィック用途のビットマップ専用3Dツールが存在していませんでした)。1996年の時点では、この発明は特許出願と実際のソフトウェア「デジタルネンド」(アスク、1996年)の開発にとどまりましたが、後の2005年に「芸術特許」と命名し美術としての着地を試みました。一方、特許出願時に併せて着想したビットマップとベクターの抽象化のアイディアは、作品シリーズ「文字座標型絵画」と「単一曲線」として1997年に具現しました。前者は2Dビットマップにおける画素を色彩の属性から解き放ち文字等の記号としたもの、後者は2Dベクターにおける輪郭線を単体として取り出したもので、後の2000年に「方法芸術」と命名しモダニズムとしての立場を明確化しました。そもそも発明は未視感の追求、特許はオリジナリティの主張、ビットマップとベクターは原子論とイデア論という二項対立、作品の抽象化は自己批判的な純粋化ですから、どうしてもそれまで渦中にいたポストモダニズムやイラストレーターという肩書とは齟齬を来しモダニズムそして美術家へと転身しなければならなくなりました。なお特許というと「社会に役立つ発明」(必要は発明の母)そして「排他的権利の主張」というイメージがありますが、私の場合はまったく逆で、「芸術のための芸術の追求の結果としての発明」(必要は発明の母ではない)そして「実物がなくても概念を記述できるほとんど唯一の形式」としての特許でした。後者は具体的には、当時実物化できたソフトウェア「デジタルネンド」は32x32x32の画素数しか扱えず見た目からレゴブロックのデジタル版と誤解されましたが、3200x3200x3200ならばネンドすなわちデジタル塑像まで行くところマシンスペックが追いつかず実物が作れない。しかし特許ならばその概念を記述可能なわけです。ビットマップ3Dプリンタに至っては、実物を作る資金も協賛企業も当時は見つけられませんでした。ポストモダニズム→5a。中解像度ビットマップ→*6b12。ビットマップとベクター→*4c2、*8a6。
【和文決定・英訳可】[固有名]三次元グラフィックス編集装置および方法 Voxel Data Processing Using Attributes Thereof、造形装置および方法 Solid Object Generation、デジタルネンド Digital Nendo [Digital Clay]、文字座標型絵画 Letter-Coordinate Painting、単一曲線 Single Curved Line
*7c9
2014年では用語としてのモダニズムもポストモダニズムも懐かしい響きさえありますが、1997年当時はポストモダニズムはざっくりと善、モダニズムはざっくりと悪でした。それとも関係しますが「ゆとり教育」的な平易さが善、硬派は流行らず難解は悪でした。「悪」は、権威主義者のイメージです。
【和文決定・英訳可】
*7c10
「方法絵画、方法詩、方法音楽(方法主義宣言)/二十世紀の諸学諸芸に民主主義体制の結果として林立した同語反復は、形式ではなく方法への還元によって、再び単一原理として語られ始めなければならない。同語反復が意味する無意味は感覚主義や衆愚の口実とはならず、むしろその権威化には禁欲と戒律が要請される。/方法絵画は、偶然と即興を禁じて方法自体に重ね合わされた色彩平面である。ただし、快楽に直結する実際の色彩は、周到に他の物質に置換されることもある。/方法詩は、私情と没入を禁じて方法自体と化した文字列である。ただし、抒情を叙事する実際の文字は、周到に他の記号に代替されることもある。/方法音楽は、表情と速度を禁じて方法自体が具現した振動時間である。ただし、愛欲を加減する実際の振動は、周到に他の事象で代用されることもある。/これらの方法芸術は、一方ではそれぞれの形式が依拠する伝統に回帰しつつ、他方では単一原理を同時代的に唱和する。われわれ方法主義者は、放縦と怠惰を学芸にもたらした自由と平等を懐疑し、倫理としての論理を復権する。/補遺一 篠原資明は、十年ほど前から自作を方法詩と呼んでいる。氏の活動に敬意を表しつつ、同語を拡大・再解釈して用いる。/補遺二 本宣言に対する賛同者は、「賛同 氏名(肩書)」と末尾に書き加えた上で、自己の責任によって、知人に転送して構わない。部分的賛同者、非賛同者も同様である。もちろん、氏名を追加せずに転送したければ、それでもよい。/西暦二千年(平成十二年)一月一日/起草 中ザワヒデキ(美術家)/起草立会 松井茂(詩人)/起草立会 足立智美(音楽家)」(2000年1月1日にEメール1000通以上と年賀状500通以上で配信された宣言の全文)
"Method Painting, Method Poem, Method Music (Methodicist Manifesto) / A large number of tautologies seen in every art and every science of the twentieth century, which democratic systems have given rise to, should now be talked about again as a single principle, by being reduced to method, not to form. Meaninglessness, which is what tautologies mean, does not excuse sensualism nor the mob, and it rather requests stoicism and discipline for its authorization. / Method painting is a colored plane which is overlaid on method itself, prohibiting chance and improvisation. However, real colors which cause pleasure will sometimes be replaced scrupulously with other materials. / Method poem is a row of letters which comes to method itself, prohibiting personalization and absorption. However, real letters which epicize lyric will sometimes be alternated scrupulously with other signs. / Method music is a vibrating time which embodies method itself, prohibiting expression and tempo. However, real vibrations which vary eros will sometimes be exchanged scrupulously for other events. / These method arts, on the one hand, return to the tradition which each form depends on, and on the other hand, sing in chorus a single principle in the same age. We, methodicists, doubt liberty and equality which have produced license and indolence in arts and sciences, and reinstate logics as ethics. / Supplement 1 Motoaki Shinohara has been calling his own compositions method poems since about ten years ago. While respecting his activities, we use the words with a broad reinterpretation. / Supplement 2 Those in favor of this manifesto can forward it to acquaintances on your own responsibility, adding "In favor, Name, (profession)" at the end. Those partially in favor and those not in favor can also do in the same way. Or, you can of course forward it without adding your name. / January 1, 2000 / Drafter: Hideki Nakazawa (artist) / Draft observer: Shigeru Matsui (poet) / Draft observer: Tomomi Adachi (musician)" (All the text of the manifesto distributed via over 1,000 emails and over 500 New Year Card on January 1, 2000.)
*7c11
「フォーマリズム的な媒体への還元」という言葉を抜き書きすると、一般認識とはずれますが理屈の上ではフォーマリズムは具体芸術だったことになります。物質を物質のまま、音響を音響のまま、文字を文字のままそれぞれ意味から切り離して提示したのが具体美術、具体音楽、具体詩だったからです。そして実際、後期の具体美術は抽象表現主義絵画でした。一方、方法芸術においては媒体は還元の対象にはなりません。たとえば文字をソネットの方法で並べれば詩作品となりますが、文字を画素配置の方法で並べれば絵画作品、文字を対位法作曲の方法で並べれば音楽作品となります。ここでは方法がジャンルを分かつアイデンティティとなるため、諸ジャンルの総合を目指すバウハウスや実験工房のような総合芸術や、諸ジャンルの中間領域に積極性を見出すインターメディアは目指されていません。(参考:中ザワヒデキ「間芸術、多芸術、単芸術そして方法芸術」機関誌『方法』第8号、2001年5月。)具体芸術→*2a3。還元主義→*4a3。諸芸術の連繋→*4b2。
【和文決定・英訳可】
*7c12
これらを動機づけた私の深層心理としては、特許出願に自分を駆り立てたものが「すべての視覚芸術家がかかえる問題を原理レベルから解決する」との確信だったことと、オウム真理教事件でその潜在が暗示されたある種の原理主義性こそ芸術のための芸術として追究されなければならないと直感したこととが挙げられます(オウム真理教事件については椹木野衣も『現代・日本・美術』執筆の動機として挙げています)。義憤にも似た切実なこの思いを、しばしば私は「連続体仮説が解決しなければ人類全体が不幸であるとの脅迫観念に駆られた数学者」というたとえで説明してきましたが、2014年に聴講した土屋誠一の講義をきっかけに、「セカイ系」というキーワードが時代考証的にも有効かもしれないことに気づきました。なお、仏教原理主義は小乗仏教的なものなので、「方法芸術」の命名の際の候補には「小乗芸術」もありました。参考:中ザワヒデキ「『方法』の活動と終焉」『妃』第13号、2005年9月、41-65ページ。セカイ系→*4d2。新古典主義→*4e1。
【和文決定・英訳可】