現代美術史日本篇[5] 1980-1984 脱前衛5a 5b 内部: 80年代アヴァンギャルドと新表現主義 5c 5d

5b
内部: 80年代アヴァンギャルドと新表現主義
Inside: 80's Avant-Garde and Neo-Expressionism

【本文確定】

1980年代前半の日本の美術界の「内部」を語るにあたり、2008年に登場した「80年代アヴァンギャルド」という概念を導入すると、だいぶ見通しが良くなります*5b1。これは「80年代美術はポストもの派の続きでしかない」というそれまでの史観を修正するもので、新時代に踏み出す大勢の若手美術家の感覚主義的なエネルギーを「前衛」と呼んで認めるものです*5b2。すると、この時代が「何もなかった」わけでもなければ、美術界の「外部」にのみ同時代の熱狂が偏在していたわけでもなかったことになります。美術界の内部でも外部でも、世界と同期するニューウェーブの嵐が当時吹き荒れたというわけです*5b3

具体的には色彩やイメージが、半立体やレリーフ、あるいは「ジャンルとしてのインスタレーション」として登場しました。インスタレーションは設置あるいは展示という意味ですが、日本では1980年頃から、絵画(平面)や彫刻(立体)と並ぶもう一つの新興ジャンル名のように使われ始めました。これはこの時期に鮮やかに彩色されたレリーフが空間を意識して展開されたり(荻野裕政)、即興的なドローイングが壁と作品を跨いで施されたり(関口敦人)、原色のペインティングがオブジェやパフォーマンスと組み合わされたり(山倉研志)したことなどと無関係ではないでしょう。しばしば「バッド」な具象イメージを伴い(天野博之)*5b4、あるいは「超少女」と呼ばれた一群の若手女性作家(吉澤美香、前本彰子、菅野由美子、矢野美智子ほか)の自由な感性を媒介したそのスタイルは、マッチョに「ものを放置」してみせた前時代のもの派や、制作を再開したが禁欲が残存していたポストもの派の展示とはだいぶ趣きを異にするものでした。

1981年2月、東京神田にオープンした画廊パレルゴンが、80年代アヴァンギャルドの牙城となりました。「70年代後半の学生たちは『失画症』と宇佐見圭司が語ったような、ある種の行き詰まりにぶち当たっていた。それに対して80年代前半、パレルゴンを始めた頃になると、作家たちはもっとすごく生き生きとしてきた」*5b5。画廊を主宰した藤井雅実が1984年にまとめた冊子『現代美術の最前線』には、47名の美術家の図版とコメント、5本の座談会記録、そして藤井雅実自身の驚くべき論文が所収されています*5b6。その論文記載の分類によると、「A ネオ・フォーマリズム」としては伊藤誠、吉川陽一郎、岡崎乾二郎、松浦寿夫、黒川弘毅ほか。「B ニューイメージ」としては天野博之、吉澤美香、前本彰子、荻野裕政、矢野美智子、関口敦仁、菅野由美子ほか。「C シンボリック」としては岩瀬京子、酒井信一、ムラカミ・ヤスヒロ、川島清、竹田康宏、加茂博、大村益三、池ヶ谷肇、平林薫ほかが挙げられています。なおこの冊子は1982年5月から7月にかけて同画廊で開催された同名の連続展覧会のカタログとして当初発想されましたが、内容と所収の美術家数を拡大した経緯がありました。

1981年、東京銀座のGアートギャラリーで開催された「ニューペインテッド・レリーフ」展(荻野裕政企画)と村松画廊で開催された「ハッピーアート」展は、Bゼミ(という美術学校)の美術家たちの自主企画連続展。1982年、京都市立芸術大学ギャラリーと東京藝術大学展示室で開催された「フジヤマ・ゲイシャ」展は、両大学の院生と学生有志による自主企画交流展。後者の京都側の参加作家には池田周功、中原浩大、椿昇、杉山知子の名前も見えます*5b7。1983年、東京銀座の2箇所の画廊で開催された「ポリパラレル」(関口敦仁企画)は「フジヤマ・ゲイシャ」の流れを汲むもの。そしてこれらの「新潮流」(ニューウェーブ)は、1979年にデビューした川俣正やポストもの派の作家たちとともに、横浜市民ギャラリーの年次展「今日の作家展」や原美術館の「ハラ・アニュアル」ほかで積極的に紹介されました。

一方、世界的な絵画回帰の一環として、欧米の「バッド」な具象絵画動向に呼応した新表現主義絵画が、日本の画家のカンバス上にも現れました*5b8ロンドンの「ラディカル・イラストレーション」のグループと親交のあった大竹伸朗は(私の記憶では)「100号の大作を3分で描いたっていいじゃないか」と言って大量の具象画を発表し始め*5b9、1960年代からサブカルチャー・シーンを牽引していたデザイナーの横尾忠則は、「画家宣言」を行って憑かれたように絵の具で描き始めました。国内外のこの動向を擁護した伊東順二著『現在美術』(1985年、パルコ出版)は美術界を超えて広く読まれ、ハイカルチャー文脈においてもポストモダン時代が到来していることを強く読者に印象づけましたが、美術界内部の評論家の多くは新表現主義自体をキッチュとして糾弾したり、日本におけるそれは欧米追随であると非難したり、あるいは大竹伸朗の作品が宣伝広告に使われたり横尾忠則がデザイナーだったりしたことから応用美術という外部と見なして無視したりしました*5b10

そしてあからさまに「バッド」な新表現主義ではなくとも、その空気が、1970年代後半のシステミック・ペインティングから1980年代後半のフォーマリズム絵画へと続く日本の美術内美術の画家たちの筆致に影響した可能性はあると思います。辰野登恵子の1980年の変節は美術界に衝撃を与え、吉本作次、赤塚祐二、中村一美らがペインタリーな画家として登場しました*5b11

【初版ママ】There were three aspects to the "Inside (Within)" of the first half of the 1980s Japanese art world which were installation as a genre, the refined Post Mono-ha and new expressionist paintings.

【初版ママ】Installation means "to place" or "exhibit" but since the latter half of the 1970s, it was used to mean "exhibition with awareness for place" in art parlance. In Japan, it came into use as a name for an emergent genre in art along with paintings and sculpture in the first half of the 1980s. This was because during this time, a free and extravagant colored relief sculptures came about which became the components for installations*5b1. These installations were different from the installations which derived from the context of three-dimensional forms of Mono-ha and Post Mono-ha. There were also "bad" representational images which came about*5b2, and the emergence of many female artists with sensibility who were called "choshojo (supergirls)" gave an air of a beginning of a new era.

【初版ママ】Exhibitions such as "Happy Art," held in 1981 at rental galleries in Kanda and Ginza in Tokyo, "New Painted Relief" and "The Frontline of Contemporary Art" exhibitions held in 1982 which were group shows centered on works by artists from B Seminar Schooling System showed this type of tendencies. Young male artists such as Amano Hiroyuki, Yamakura Kenshi and Ogino Hiromasa and "choshojo (supergirls)" such as Yoshizawa Mika, Maemoto Shoko, Sugano Yumiko, Yano Michiko, Hirabayashi Kaoru and Yasuda Naoko emerged from this trend. Part of this trend gave a sense of being in the same timeframe with that of the Neo-Expressionism in the West.

【初版ママ】Mixed with this trend was an emergent trend in refinement of Post Mono-ha. It did not use straightforward representational images, and were three-dimensional forms or installations where imposing profoundness was eliminated from Post Mono-ha works of the previous era. The artists of this trend included Okazaki Kenjiro, Kawamata Tadashi, Ikegaya Hajime, Kamo Hiroshi, Kurokawa Hirotake, Senzaki Chieo and Kitta Naoyuki, and some of them showed influences from American post-minimalism. The preceding trend and this trend were actively introduced at "Today's Artists" exhibition held at Yokohama Civic Art Gallery, "Hara Annual" exhibition at Hara Museum and "Parallel Art" exhibition series presided over by Minemura Toshiaki.

【初版ママ】At the same time, as part of the global "reinstatement of the paintings" and in response to trends in "bad" representational paintings in the West*5b3, new expressionist paintings began to appear on the canvases of the Japanese painters. Ohtake Shinro, who had close relationships with London's "Radical Illustration" group members, declared (in my memory) "One hundred major works can be drawn in three minutes" and started to produce huge amounts of representational drawings*5b4. Yokoo Tadanori, who has been a leading figure in the subculture scene since the 1960s, declared a "painter declaration" and started to paint obsessively. Although Ito Junji's book "Art in Front" (Parco Publishing), which defended this trend happening within and abroad, was widely read even outside of the art audience, many of the critics within the art world ignored it by denouncing Neo-Expressionism as being kitsch, or criticizing contemporary art in Japan as being followers of Western trends, or because Ohtake's works were being used for advertisements and Yokoo comes from a designer's background and therefore being commercial art and outside of the contemporary art world*5b5.

【初版ママ】During this era, other artists who also started to get involved in new wave paintings and sculptural reliefs as well as installations were Yoshimoto Sakzy, Asahina Yasuto, Akatsuka Yuji and Sekiguchi Atsuhito.

【註確定】

*5b1
「80年代アヴァンギャルド」という概念の登場は、私の知る限り「現場」研究会(北澤憲昭代表)による2回の定例会(1)(2)と1回のシンポジウム(3)、そして坂上しのぶによる論文「80年代考-80年代ニューウェーヴをめぐって」(4)の発表をもってなされました。すべて2008年です。(4)の標題は「80年代ニューウェーヴ」となっていますが、論文中の小見出しの一つに「『アヴァンギャルド』としての80年代ニューウェーヴ」という項目があることと、文中にアヴァンギャルドの語についての記述が無いことから、あまり区別して使われているわけではないようです。(1)第64回「現場」研究会 80年代アヴァンギャルド美術について―北澤憲昭(「現場」研究会代表)復帰記念 2008年4月19日。(2)第66回「現場」研究会 80年代アヴァンギャルド系現代美術シンポジウムのための討議―藤井雅実(画廊パレルゴン創設・主宰)を迎えて 2008年6月。(3)シンポジウム「80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術―画廊パレルゴンの活動を焦点として」京橋区民館 2008年7月6日。(以上、http://genbaken.com/ 2014年10月15日に訪問。)(4)『所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線』カタログ、所沢ビエンナーレ実行委員会、2008年10月1日発行、42-61ページ。
【和文決定・英訳可】

*5b2
後出しじゃんけん的な言い方をするならば、当時のその動向を「前衛」と呼んで認めるのに四半世紀もかかってしまったわけです。そんなに時間がかかった理由としては、批評の言葉が弱かった、記録が残されていなかった、外部の日本グラフィック展にかき消された、後の東京シミュレーショニズムに継承されなかった等、さまざまに考えられます。しかし、最大の理由は当事者たちが当時、自分たちを前衛だとはまったく考えていなかったからではないでしようか。なぜなら当時は「脱前衛」がかまびすしく叫ばれていたからで、前衛なんて過去のもの、時代はまさにポストモダン、まさか自分たちが前衛などに関与しているとは夢にも思わなかったはずだからです。逆の言い方をすると、2008年になってようやく当時は脱前衛だったことを忘れるだけの時間が経過したということかもしれません。続く引用は前記(3)のシンポジウム議事録から大村益三の発言です。「80年代、我こそはアヴァンギャルドである、と自称していた人間は1人もいないと思います。僕も今回アヴァンギャルドって言われて、あぁ、そうだったのかなと、事後的に自分を捉え直すきっかけにはなったけれども」。*5a5、*5a8、*5a12参照。
【和文決定・英訳可】

*5b3
当時ニューウェーブの語が指し示した範囲は広く、『美術手帖』1984年1月号の特集「ニュー・ウェイヴの旗手たち」の表紙には「美術+映画+写真+演劇+建築+音楽+漫画+ダンス+イラスト+ファッション+ヴィデオ」とジャンル名が列記され、特集ページ冒頭には「それが、文化の世代交代期であるかのように、いま、芸術表現の諸分野で、新人の台頭が著しい。不敵で繊細な表現志向を持つ新人たちの表現は、ジャンルを超え、時を超えて、私たちの時代の表現の万華鏡の模様のひとつになってゆく」との編集部メッセージが記されています。この特集は日本に限っていますが、ニューウェーブ自体は世界的な傾向でした。美術としてのそれは欧米型の新表現主義(各国での呼び名は*5a8参照)と、日本では本節と次節で扱うものということになります。
【和文決定・英訳可】

*5b4
1970年代美術の傾向をふまえれば、ただでさえ「具象イメージ」の提出が退歩的な悪しきものに映るところへ、さらに稚拙さや下品さが伴われている場合、「『バッド』な具象イメージ」とここでは形容してみました。世界的な新表現主義絵画の特徴の一つと思われ、1978年にニューヨークのニュー・ミュージアムで行なわれた「バッド・ペインティング」展を念頭に置いています。
【和文決定・英訳可】

*5b5
前記(3)のシンポジウム議事録から藤井雅実の発言。
【和文決定・英訳可】

*5b6
「『美術』の解体=懐胎、あるいはポリプラクティス」、77-85ページ。
【和文決定・英訳可】

*5b7
つまり関西ニューウェーブの美術家たちです。6a参照。
【和文決定・英訳可】

*5b8
4e、*5b4参照。
See 4e, *5b4.

*5b9
「三分で描いたっていいじゃないか! まさしく三分で描いたっていいのです。別に何分かけて描こうとどうだっていいのです。逆に、本当に三分で描いた絵がどんなに駄作だったとしても、あるいはどんなに傑作だったとしても、そんなこともどうだっていいのです。問題は絵の良し悪しではなく、『三分で描いたっていいじゃないか!』と言い切ることそのものなのです」(中ザワヒデキ「新表現主義」『美術手帖』1990年7月号、80-81ページ)。
【和文決定・英訳可】

*5b10
新表現主義に対する苦言を一貫して呈し続けた藤枝晃雄は、しかし、興味深い指摘も数多く行っています。(以下の引用文中「脱モダニズム」とあるのはポストモダニズムのことと思われます。また、原文の強調点は省略しました。)「真正のモダニズムのなかったわが国においては脱モダニズムはなく、せいぜい欧米における伝統への注視を日本的モティーフに転化しているにすぎない。ニューヨークのある画廊がエゴン・シーレたちの展観をモダニズムだと題しているように、脱モダニズムはモダニズムの部分であるものがほとんどすべてでてある。すなわち、いわゆる脱モダニズムはデュシャンからポップアートにいたる不連続で結果としての流れのなかでなされた芸術(わが国の美術界が色めくのはこの場合である)、その芸術化によって再評価されたアール・ヌーヴォーなどの通俗化である。それは奇妙にもモダニズムの一隅にいてこれに抗す『反モダニズム』にすぎない。心情的で語りやすく、その限りにおいて理論的な武装を誇示することができるものである」(藤枝晃雄「騙られる歴史主義」『美術手帖』1983年1月号、94-107ページ)。「最大の皮肉は、芸術が歴史を参照するようになったといい、新しさを否定する作家や批評家たちが、結局は、対象としての新しさの虜になっていることである」(同)。
【和文決定・英訳可】

*5b11
前記(4)の坂上しのぶの論文から引用します。「70年代、ストライプや連続点線などでミニマルな表現をして注目を浴びていた辰野登恵子の『転身』と揶揄された、画面にS字のようなものが描かれ、多様な色彩が重層的に表現されたいわゆる『表現主義』的な絵画の登場がある」(49ページ)。この場合の「表現主義」的は、方法論的には抽象表現主義的(モダニズム的)、時代精神的には新表現主義的(ポストモダニズム的)だった可能性を、私は否定できないと思います。*4e3、*6b1参照。
【和文決定・英訳可】

吉澤美香 (1959- ) / YOSHIZAWA Mika / ち-26 / CHI-26 / 平成7年 / 1995
- ジャーナリズムによって「超少女」と名付けられた作家たちに共通する作風は、自由で感性的なインスタレーションでした。しかし内実はばらばらで、フェミニズムとも無関係でした。吉澤美香は最も軽妙洒脱で、初期には白く塗った日用品に少し落書きを加えたり針金を付着したりしただけの知的なインスタレーションを展開しました。対極はおそらく、失恋の痛手からおどろおどろしく濃密なドレスを作った前本彰子でした。吉澤美香と前本彰子が1982年に行った二人展は「女の子は水でできたからだ」と題され、チラシに用いられた手書きの文字感覚もあいまって硬派な前時代との断絶を強く印象づけましたが、彼女たちは前時代の美術を擁護した評論家たちにも人気でした。
- The commonality that the works of the female artists who were called "choshojo (supergirls)" in the media shared was installations with sense of freedom and sensibility. But in reality, this was not really the case and also did not have anything to do with feminism. Yoshizawa Mika's works were the most free and witty and created intellectual installations in which little bit of scribbles or wires were applied on household goods which were painted white. The opposite of her was probably Maemoto Shoko who made chilling and ornate dresses from the pain of her broken heart. Yoshizawa and Maemoto's two person show in 1982 was titled "Because a Girl is Created from Water" and it gave a strong impression of a break from the hard-line image of the previous era. But they were nevertheless popular with critics who defended the arts from previous era.


川俣 正 (1953- ) / KAWAMATA Tadashi / '82 ベニス・ビエンナーレ プランニング 2 / Planning for '82 Venezia Biennale No. 2 / 昭和57年 / 1982
- ポストもの派世代とニューウェーブ世代の中間に位置する川俣正の屋外インスタレーションは、もの派やポストもの派同様に絵画や彫刻形式からの逸脱を引き受けたまま、建材によってグラフィティを行ったかのようでした。
- The outdoor installations by Kawamata Tadashi, which belong in-between Post Mono-ha and new wave generations, were like graffitis created out of construction materials in order to take on the task of deviating from paintings and sculptures like what the Mono-ha and Post Mono-ha artists did.


本頁は作業中です。ご注意ください。

履歴(含自分用メモ)
2012-08-31 本頁作成。大幅改訂。

20140928
- フジヤマゲイシャ…坂上論文、そして前衛と呼ばれてることを記入必要<済20141007
- フォーマリズム絵画…西村論文参照すると4eと5bに注を入れて6b1に誘導するとよいだろう
- ジャンルとしてのインスタレーション(含超少女)、ポストもの派の洗練、新表現主義絵画の三相 もしくはこれにフォーマリズム絵画を加えて四相 という言い方としたい
20141001
- 5b4記入<5b9に変更20141007
- 2008年の現場研究会以降。坂上は80年代ニューウェーブと言っているが内実は同じだろう。ちなみに当時は後述するよわうに前衛は終わったと考えられていたため自身を前衛と呼ぶことはありえなかった。
- 初版と改訂版の違いは80年代アヴァンギャルドもより重視すること。ちなみに初版が出た段階ではまだ80年代アヴァンギャルドという名辞での見直しは始まっていなかった。
- しかし他方で、今の美術家たちと比べて、振り返っても幸せにみえる側面もある。70年代後半の学生たちは「失画症」と宇佐見圭司(1940-)が語ったような、ある種の行き詰まりにぶち当たっていた。それに対して80年代前半、パレルゴンを始めた頃になると、作家たちはもっとすごく生き生きとしてきた。ソレが、僕が画廊始める1番のきっかけになった。何か動きがあるぞ、現代美術が新しい方向に踏み出すことができるかもしれない。この、動きの新しさの内実とは何だったか? 作家個々によって感想はもちろん違うでしょう。先程の吉川さんと大村さんのでも非常に違う。しかし、そうした作家の個々の資質や関心の差異を超えて、当時の時代の環境にあったのが、大きな理念の圧力からの解放、という感覚的な実感に導かれたポストモダンの気分だった。70年代には、暮沢さんも語られたもの派やミニマル・アートや概念芸術に至って、モダニズムの芸術観が限界点に達していた。人びとの欲望や価値観を支えていたモダンの大きな効力というものが失われて、しかしそれに替わる依拠すべき基準も見つからず、欲望のデッドロックに直面していたのだけれど、80年代になると、そうしたすべて素材なんだ、何をどう扱ってもいいんだという、いわばスキゾフレニックで、記号論的な操作による表現の可能性が、実感レベルで育まれていた。身体であれ物であれ絵画であれ彫刻であれ、すべて記号的な素材であり、それを自由にコンバインしシャッフルし組み合わせて様々な表現を作ることができる。後に椹木さんがポストモダンの3種の神器というかたちで出す、カットアップ/リミックス/サンプリング。そういった行為が名前を与えられないままに自然発生的に行われていた。それが80年代前半だった。(藤井)http://genbaken.com/genbaken/minutes0807special_06.html
- 削除:この時期の日本の作家のレリーフへの興味には、1981年に作風を激変させたフランク・ステラの影響もあったかもしれません。またペインティングやドローイングがカンバスを離れたところでも展開されたのは、キース・ヘリングやジャン・ミシェル・バスキアほか、ニューヨーク・グラフィティの影響もあったかもしれません。
The interest in sculptural reliefs among Japanese artists during this time probably came from the influence of Frank Stella who suddenly changed his artwork style in 1981. Also, the separation of paintings and drawings from canvases probably had influences from works by Keith Haring, Jean-Michel Basquiat and New York graffitis.
20141007【和文本文決定】
- 初版とは全体的にだいぶ変わっています。第1段落完全新規、第2段落ほぼ新規、第3段落完全新規、第4段落ほぼ新規、第5段落はある程度原形が残っています、第6段落新規です。
20141015【和文注記決定】
■初校時改変(本文第5段落表記)[1英文無関係]:のカンバス上>のキャンバス上
■初校時改変(本文第5段落内容)[3英訳に影響][改変英文固有名:Royal College of Art]:ロンドンの「ラディカル・イラストレーション」のグループと親交のあった大竹>>1970年代後半にロンドン王立美術学校のグラフィック科を卒業したグループと親交のあった大竹
■初校時改変(注記*5b2参照先)[2英文に影響]:けれども」。*5a5、*5a8、*5a12参照。>>けれども」。脱前衛という名の前衛→*5a8。80年代ニューウェーブ→*5a12
■初校時改変(注記*5b7参照先)[2英文に影響]:たちです。6a参照。>>たちです。関西ニューウェーブ→*6a4
■初校時改変(注記*5b8参照先)[2英文に影響]:4e、*5b4参照。>>絵画回帰→4e。「バッド」な具象イメージ→*5b4
■初校時改変(注記*5b9参照先)[2英文に影響]:ページ)。>>ページ)。表現主義→*5a4*8a12*8c7
■初校時改変(注記*5b11参照先)[2英文に影響]:ます。*4e3、*6b1参照。>>ます。日本のフォーマリズム→*4e3*6b1。表現主義的な力学→*6b2