現代美術史日本篇[5] 1980-1984 脱前衛5a 5b 5c 外部: ヘタうまと日本グラフィック展 5d

5c
外部: ヘタうまと日本グラフィック展
Outside: Heta-Uma and Nippon Graphic Exhibition

【本文確定】

1980年の時点では、日本の美術シーンには相異なる三つの制度がありました。(1)公募団体美術、(2)現代美術、(3)イラストレーションです*5c1。日展や二科展、あるいは日本画の院展といった「(1)公募団体美術」はサロン的アカデミズムを継承し、一般にはまだ権威があるかに見えていましたが、美術としては存在意義を希薄化してすでに久しい状況でした。次に「(2)現代美術」は、一般には「難しくてよくわからない」敬遠の対象でしたが、美術としても1970年代に実際に晦渋となってしまっていました。たとえば絵画や彫刻の形式や、具象的なイメージは、既視感を理由に自粛されていました。なお1980年以降については、美術の「内部」という言い方で前節で見たとおりです。

さて「(3)イラストレーション」とは、英語での原義は図版という意味でしかありませんが、1980年時点の日本では「商業イラストレーション」のことだったと言ってよいでしょう。イラストレーターと呼ばれる専門家が、依頼を受けて代価と引き換えに描く説明画がイラストレーションでした*5c2。つまり応用美術であり、純粋美術という意味での美術ではありません。ところが1980年以降の日本のイラストレーションは、その制度の中に「反イラスト」とでも言うべき現象を引き起こしてしまいました。依頼されてもいないのに、イラストレーションが自ら主張を始めてしまったのです。しかもこれは、ポストモダニズムと重なります。もともと近代における美術の制度が未視感を追求するためのものだったとするならば、具象イメージの復活等、既視感に関わるポストモダニズムの芸術が、美術の制度の外部で花開いたとしても不思議ではありません。それが、日本で起きたのだと私は考えます。名前は美術ではなかったとしても、その実態は明らかに「芸術のための芸術」でした。

1970年代後半、巷にはエアブラシで描いたスーパーリアル・イラストレーションがあふれていましたが*5c3、1980年頃、突如「ヘタうま」ブームが起きました。イラストレーターの湯村輝彦[テリー・ジョンスン]が東京新宿に構えるフラミンゴ・スタジオに、ぞくぞくと新しい表現を目指す若者が集まってきたのです。大塚製薬のオロナミンCのシリーズ広告や、糸井重里とのコンビによる漫画「情熱のペンギンごはん」で各界に衝撃を与えていた湯村輝彦は、(良い方から)「(1)ヘタうま、(2)ヘタヘタ、(3)うまうま、(4)うまヘタの順である」と言いました*5c4。「ヘタうま」とは「一見ヘタなようで実はうまい」という意味です。これは一見ヘタに見えるほど勢いがある、すなわち表現主義的という意味にも取れますし、玄人の技術より素人の衝動を重視するという風にも解釈できます。ヘタうまの次がヘタヘタであることから、「実はうまい」よりも「ヘタ」、すなわち「バッド」の重視が明らかでした*5c5

メディア上での湯村輝彦一派の活躍場所は、サブカルチャー誌の『ビックリハウス』(パルコ出版)や『宝島』(JICC出版局)、あるいは業界誌『イラストレーション』(玄光社)での連載「ザ・テリータイムズ」などでした。霜田恵美子、スージィ甘金[スージー甘金]、伊藤桂司、湯村タラ、中村幸子、太田螢一、飯田三代、蛭子能収、根本敬といったニューウェーブな才能が毎号誌面をおもしろおかしく賑わし、「東京ファンキースタッフ」というグループ名で展覧会も行いました(「T・F・S展」1983年、渋谷パルコ、ほか)*5c6

一方、パルコ主催の「日本グラフィック展」(日グラ)は、パルコのエンジンルームを率いる榎本了壱が仕掛けた公募展で、『ビックリハウス』系の姉妹誌が行った「日本パロディ展」(JPC展)を母胎としていました。応募要項には「新しい発想と表現で、イラストレーションの概念を拡張する新しいクリエーターの発掘を目指す」とあり*5c7、これにより依頼されてもいないのに描かれたイラストレーションが大挙出現することとなりました。1980年9月に開催された第1回日本グラフィック展では、応募作群はまだ「スーパーリアリズムの大襲来」状態でしたが、審査員たちが大賞に選んだのはまったく異なる伊東淳の不思議な手描き画でした*5c8。この時ぽっかりと空けられた風穴が、異変にまで発展したのは1982年の第3回展で、2,301点の応募作の大半をヘタうま的な作品が占め、どこにでも捨ててあるダンボールに落描きや切り貼りを施した日比野克彦が大賞に選ばれました。日比野克彦は一躍時代の寵児となりました*5c9

翌1983年の第4回展では、手に手にB全パネルをかかえた応募者の長蛇の列が*5c10、受付最終日の炎天下の東京渋谷のパルコをぐるりと幾重にも取り囲みました。応募総数は主催者の予想をはるかに上回る4,634点で、出品受付は深夜になってもまだまだ終わらなかったと伝説化されています。その後も応募点数は伸び、ピークは1985年の第6回展における5,395点でした。「一見ヘタ」の気分がスーパーリアルから落描きへ、エアブラシからダンボールへ、限られた専門家から大勢の若手表現者の出現へと時代を旋回させました。大賞や上位入賞者には日比野克彦を始め、谷口康彦[谷口広樹]、田中紀之[タナカノリユキ]、伊勢克也といった東京藝術大学デザイン科の大学院生や卒業生が多く、「芸大旋風」と騒がれました。

ここに「ヘタうま-パルコ-反イラスト」という構図が見て取れます。この日本の「反イラスト」は、「バッド」な具象イメージや大勢の若手表現者の出現という欧米の新表現主義の特徴を兼ね備えていただけでなく、ポストモダニズムのもう一つの様態としてのシミュレーショニズム的な要素も垣間見せていました。湯村輝彦と湯村タラはアメリカン・フィフティーズの、霜田恵美子は大正モダン広告の、スージィ甘金は藤子不二雄とジャスパー・ジョーンズの、それぞれキッチュなパロディとも言えますし、日比野克彦の日本グラフィック展大賞受賞作は、飛行機の絵ならぬ飛行機の玩具の絵だったことから、「複製の複製的」「複々々製ぐらい」などの熱論が選評座談会で交わされています*5c11

1985年1月、東京新宿の伊勢丹美術館では芸大旋風の担い手7名による展覧会「七福神展」が開催され、同時期に東京池袋の西武アートフォーラムとスタジオ200では、湯村輝彦一派の総勢42名による展覧会「イラストレーション・ピクニック(イラスト新鋭作家展)」が開催されました。ともに、それまでのイラストレーションの常識からは考えられない大作化や立体化が見られ、映像やライブも交えた「反イラスト」の祭典となりましたが、これを最後に保守化が起こります。国内外のニューウェーブ動向を積極的に紹介してきた『イラストレーション』誌は本来の商業イラストレーション路線に立ち返り、反対に日本グラフィック展は「アート」路線に転向しました*5c12。シミュレーショニズムという名のポストモダニズム第2波では、プレーヤーも交代します。

【初版ママ】During the latter half of the 1970s, super-real illustrations done in airbrushes were everywhere*5c1, but suddenly the "heta-uma (bad-good)" boom started to happen around 1980. Many young artists who were looking to explore new expressions in art went to Yumura Teruhiko (Terry Johnson), an illustrator who professed to be anti-high art. Yumura has already established the "heta-umai (bad-good)" style during the first half of the 1970s, and stated that the order of these designations would be "1. heta-uma (bad-good), 2. heta-heta (bad-bad), 3. uma-uma (good-good), 4. uma-heta (good-bad)*5c2." "Heta-uma" is a coined word combining the words "heta (bad)" and "umai (good)" and means works that looks bad at first glance but are actually good. This would mean that the works have vigor to an extent that they would look bad at first glance, in other words expressionism, or it would mean an approval of amateurism with emphasis on the drive to draw rather than hand technique. Because heta-heta came after heta-uma, it was clear that "heta," or "bad" was emphasized more than being "actually good"*5c3.

【初版ママ】Yumura and his school's stronghold were in such subculture magazines as "Bikkuri House" (Parco Publishing) and "Takarajima" (JICC Publishing) where artists like Shimoda Emiko, Suzy Amakane, Ito Keiji, Yumura Tara, Martin Ogisawa, Nakamura Sachiko, Ohta Keiichi and Iida Miyo made their debut*5c4. This school had a common kitsch deja vu to their works. For example, Yumura's own works had references of "heta-umai" from the American fifties, Shimoda's from Taisho modern advertisements and Amakane's from Fujiko Fujio and others' comic books for children*5c5.

【初版ママ】In the 1980s, there was the "Nippon Graphics Exhibition" which was very popular at that time organized by Parco and was a contest open to the public. It was started by Enomoto Ryoichi who headed a department called Engine Room at Parco and was part of the "Nippon Parody Exhibition" (JPC) organized by a sister publication of "Bikkuri House." The submissions that came in for the first exhibition in 1980 were mostly super-realism works with design as a premise*5c6. A sudden change occurred at the third exhibition in 1982 when much of the 2,301 submissions were heta-uma works which could not have had design as a premise. The grand prize winner was Hibino Katsuhiko's corrugated cardboard artwork and this caused a big sensation*5c7. Not only because of its graffiti touch, but the use of ubiquitous materials like corrugated cardboards which can be used for crafts had a feel of heta-uma and gave an impression of "something new" which were not design nor art from an existing context.

【初版ママ】The following year in 1983, there was a long line of applicants snaking around Koen-dori Street in Shibuya, Tokyo, where Parco is at, under the blazing sun and filled the street with B1 size (728mm x 1030mm) panels*5c8. Reception for the submissions apparently lasted until midnight. This fourth exhibition had 4,634 submissions and the sixth exhibition in 1985 had a peak of 5,395 submissions.

【初版ママ】Beginning with the grand prize winner Hibino and other top winners, many of the top prize winners were students in master's program or graduates of the design department of Tokyo National University of Fine Arts and Music (Geidai) and were lionized as "Geidai Sensation." Some of them included Taniguchi Yasuhiko [Hiroki], Tanaka Noriyuki and Ise Katsuya and were also followers of Yumura, but their works had a different feel compared to Yumura's straightforward kitschness and were more artistic*5c9 *5c10.

【初版ママ】In January of 1985, an exhibition of works of seven artists from the Geidai Sensation, "Seven Deities of Good Fortune" was held at Isetan Art Museum in Shinjuku, Tokyo, and at the same time, an exhibition of the works of 42 artists from the Yumura school, "Illustration Picnic (New Illustration Artists Exhibition)" was held at Seibu Art Forum and Studio 200 in Ikebukuro, Tokyo. Both exhibitions were "anti-illustration" festivals which had monumentalist and three-dimensional works as well as videos and live performances and were beyond the prevailing notion of illustration*5c11. This trend was supported by nothing other than the emergence of many unknown young artists and created an incredibly heated atmosphere.

【初版ママ】This "anti-illustration" exhibition, which is unique to Japan, flourished even more by the succession of such contest rivals as "JACA Japan Illustration Exhibiton" and "Crescent Illustration Competition" but became conservative after 1985*5c12. Seeing that works submitted to Nippon Graphics Exhibition were becoming more three-dimensional after Hibino, Parco started "Nippon Objects Exhibition" (Objects Tokyo) and made clear their direction in art. On the other hand, the magazine "Illustration" from the publisher Genkosha started a contest in the magazine called "The Choice" with one juror in 1981, and with Yumura Teruhiko as the juror for the first contest, Hibino's work was chosen and this helped to debut Hibino even before Nippon Graphics Exhibition. But when the editor-in-chief changed, a return to illustration the way it was meant to be began. During the tenure of the previous editor-in-chief Tanaka Hiroko, Ohtake Shinro, "installation," Keith Haring, Gary Panter as well as new waves from within and abroad were introduced extensively. There were also serial articles by Yokoo Tadanori and Yumura, as well as Hibino, and Murakami Takashi told me in the later years that "it was the most interesting magazine back then."

【註確定】

*5c1
1980年の時点ではまだ目立っていませんでしたが、1980年代後半以降ならば「(4)インテリア・アート」を加えてもよいかもしれません。ヒロ・ヤマガタやクリスチャン・ラッセンの系譜です。また、2000年代以降ならば「(1)公募団体美術」は一般に対してもほとんど権威を失ったように見受けられます。*7a8参照。
【和文決定・英訳可】

*5c2
*7a2参照。
See *7a2.

*5c3
「1970年代後半、パソコンはまだ無くエアブラシが『プロっぽい』画材で、これにより手描きの筆触や絵の具の物質感や作者の私情を画面から一掃、写実的で技巧的な人工美が当たり前だった。空山基や山口はるみ、ペーター佐藤らが一世を風靡しどちらを向いてもそのエピゴーネンばかり」(中ザワヒデキ「伊東淳から次の美術史のステージが始まった」『アイデア』2014年11月号、193ページ)。ジャンルとしてのスーパーリアリズムは、湯村輝彦の分類における「(4)うまヘタ」、すなわちマニエリスム的なものと位置づけることが可能です。「後日談としては、山口による1984年のPARCOグランバザールのポスターに触れたい。トレードマークのエアブラシを捨て、淡いカラーの絵筆に持ち替えた新鮮な『手描き』が衝撃だった。同年にはペーターも、エアブラシからカラーパステルに移行した」(同、193ページ)。*4e2、*7a9参照。
【和文書換・英文初版ママ】Yamaguchi Harumi and Pater Sato, who established an era of super real illustration with airbrushes, changed their style in the beginning half of the 1980s and impressed upon the world a change in times with their use of color paintings and pastels. The physicality apparent from the use of hands showed a sense of "heta-uma" in their works.

*5c4
「コレらを良い順に並べますと『ヘタうまい』→『ヘタへた』→『ウマイうまい』→『ウマイへた』となるのであります。『ウマイうまいイラスト』というのは、プロが描いたプロの絵といった匂いのモノで(中略)つまるところ、ツマらないのであります。それでは、『ウマイへたイラスト』といったモノはどうか? コレは一番イケません。上手く描こう上手く観せようという意識が先にたって、テクニックのみに片寄って、その絵には何らパッションが感じられないといったヤツであります。これが、『ヘタへたイラスト』になると、『ヘタうまイラスト』と紙一重となり、油断禁物なのであります」(美術出版社企画室-企画・制作『湯村輝彦ヒットパレード』美術出版社、1981年、84ページ)。
【和文決定・英訳可】

*5c5
1910年、髙村光太郎は石井柏亭との「生の芸術」論争において山脇信徳作「停車場の朝」を、「拙い不器用な絵だが、作者が自然にくいついて作者が見た自然の感じを出しており」と擁護しました。岡本太郎の今日の芸術の三原則の一つにも「うまくあってはいけない」とありましたが、さらに「ヘタなほうがよい」とまで踏み込んだのが湯村輝彦のヘタうまだったと言えます。「(1)ヘタうま」と「(2)ヘタヘタ」の紙一重な差異については、「誰でも描ける。誰にも描けない」というコピーや、「素人を安心させ玄人を唸らせる」という説明がなされています。 1c、*5b4参照。
【和文書換・英文初版ママ】The thinking behind "heta-uma" may evoke Okamoto Taro's three rules of art, but it can be expanded upon on the subject of impressionism, expressionism and abstract-expressionism among others as well. In other words, a copy like "Anyone can draw. No one can draw" and locutions like "Make the amateurs feel easy and impress the professionals" close in on the specifics of the issues of art after the introduction of photography. It is possible to interpret super-realism as being the opposite of heta-uma which is "uma-heta (good-bad)." It is a mannerism in a bad way where it looks photorealistic but does not convey the drive to draw. See *7a9 also.

*5c6
このグループの特徴の一つは、「イラストレーターとしての作風のまま漫画も描く」スージィ甘金、霜田恵美子らと、「漫画家としての作風のままイラストも描く」蛭子能収、根本敬らが含まれていたことです。特にスージィ甘金の、板や新聞紙を貼り込んだ上から絵の具を盛り上げたり滴らせたりしながら描かれたマチエール豊かな1ページものの幼年漫画風の大人向き漫画は、技法と形式と内容全てにおいて事件性を有するものでした。
【和文書換・英文初版ママ】There were various movements such as "Tokyo Funky Stuff" formed by Shimoda and others, and "Sanitary Exposition" planned by Ohta. In other words, the artists were not going for pure vocational illustrations. The illustrations for the comic "The Passionate Penguin Meal" was done by Yumura Teruhiko and text was written by Itoi Shigesato as a collaboration and was published, and for the comic magazine メGaro,モ Ebisu Yoshikazu, Nemoto Takashi and Maruo Suehiro worked together. Also bands like Guernica, which Ohta belonged in, and the techno pop group YMO as well as others around them had interactions with various cultures through personal connections.

*5c7
正確には、第6回展までは「イラストレーション及びフォトグラフィ」となっていました。イラストレーションに比べて1/10の応募にとどまっていたフォトグラフィが切り離されたのは1986年の第7回展以降。
【和文決定・英訳可】

*5c8
伊東淳の第1回展大賞受賞作「あまり良い天気なので少し立ち眩みがした」は、大勢の浮遊する少女を画中に登場させたジャパニメーション風のおたく画でした。当時はジャパニメーションはもちろん、おたくという語も概念もまだありませんでした(中森明夫による「おたく」の命名は1983年)。未知数だったに違いない伊東淳のセンスを選び、その後の同展の隆盛を方向付けた審査員たちの先見の明がうかがわれます(第1回展の審査員=浅葉克己、粟津潔、高梨豊、中原佑介、永井一正、山口はるみ、稲越功一)。
【和文書換・英文初版ママ】But in the end, the grand prize was not chosen from the super-realist works and instead went to Ito Jun for his otaku illustration like the animations by Miyazaki. This was at a time when the word otaku and animations by Miyazaki did not exist.

*5c9
隔月刊『イラストレーション』の誌上公募展「ザ・チョイス」は1名のゲスト審査員により5、6点の入選作を選ぶ形式で、1981年12月号の湯村輝彦による審査が第1回、(日本グラフィック展大賞受賞より早く)日比野克彦が入選しました。さらに同誌は年間の入選者の中から大賞を選ぶ「ザ・チョイス年度賞」を開設、その第1回大賞も日比野克彦でした。1983年、日本グラフィック展と似た形式の公募展「JACA日本イラストレーション展」が社団法人国際芸術文化振興会の主催により始動、その第1回大賞も日比野克彦でした。同年の第30回東京アートディレクターズクラブ最高賞も日比野克彦でした。
【和文決定・英訳可】[固有名]国際芸術文化振興会 Japan Art & Culture Association

*5c10
B全パネルとは、デザインにおける紙の寸法規格のB1サイズのパネルということで、すなわち美術(特に公募団体美術)を連想させるキャンバスではないということです。別に、もの派やポストもの派の作家ではなくても、キャンバス絵画はダサいという感覚は画学生レベルでも当時共有されていたかもしれません。そのように枠組としてはグラフィックデザインの公募展であったにもかかわらず、前年の日比野克彦のダンボールの影響で1983年の第4回展では異物を画面に貼り込み結果として画面が分厚く出っ張る傾向が大量出現、これを見た主催者は翌年の1984年に第5回日本グラフィック展とは時期を違えて第1回オブジェTOKYO展を別始動しました。しかしながら日本グラフィック展での画面出っ張りも年々加速、私は80年代アヴァンギャルドにおけるレリーフの出現やアンフォルメル旋風下の読売アンデパンダン展での画面の出っ張り、あるいは2010年のGEISAIで「つかさ」が作られたことも含めて、表現主義期のエネルギーが画面の出っ張りとして顕れるのは偶然ではないと思います。
【和文決定・英訳可】

*5c11
選評座談会「絵画とグラフィックのあいだ」『第3回日本グラフィック展作品集』パルコ、1982年、34-42ページ。
【和文決定・英訳可】

*5c12
日比野克彦とタナカノリユキは「アーティスト」、日本グラフィック展は「アート」を自称し始めました。イラストレーションではなく、かといって漢字の「美術」でもなく片仮名の「アート」が選ばれたのです。なお私の記憶では、湯村輝彦一派はアンチ・ハイアートの立場のイラストレーターが多く、80年代アヴァンギャルド系作家は美術家と自称し、東京シミュレーショニズムあたりからアーティストを自称する作家が多くなった印象です。また、時代の趨勢的にもこの頃から、西洋語を漢字を用いて翻訳せずに音声ごと外来語として取り入れる片仮名語が増えた印象です。
【和文決定・英訳可】

日比野克彦 (1958- ) / HIBINO Katsuhiko / PRESENT AIRPLANE / 昭和57年 / 1982 / 作家蔵 / Collection of the artist
- 第3回日グラの審査員は浅葉克己、粟津潔、中原佑介、山口はるみほかの面々で、大賞には日比野克彦がダンボールに描いた飛行機の玩具の絵(本作)、サッカーゲームの絵、片方だけの靴の絵が選ばれました。達者な落書きはいわゆる湯村輝彦一派のヘタうまとは違い、日比野克彦を始めとする芸大旋風の担い手たちもヘタうまを自称することはありませんでしたが、たとえば写植やレタリングを使わない手書き文字の多用が当時もたらした斬新さは、広義のヘタうまだったと言えます。そして飛行機ではなく飛行機の玩具、サッカーでなくサッカーゲームを選ぶセンスはポストモダン的な複製性を感じさせました。日比野克彦に始まる新たな表現は、需要とは無関係に制作されたので商業美術としてのイラストレーションではありませんでした。しかし、この時代に隆盛した宣伝美術に取り込まれて使用されることも多かったため、歴代審査員を務めた中原佑介は、「機能はイラストレーションに従う」と言いました。もちろん、本来なら機能にイラストレーションが従うのです。
- The pursuit of existentialism in Trick Art arrives at topological geometry, which is represented by surfaces like the Moebius band. Sekine Nobuo, who used to create works which looked like topological models which were hung on walls, created this work in large scale at a specific site out of necessity after being accepted at an outdoor sculpture exhibition. The artist's intent then was to dig a cylindrical hole on a sphere called the Earth to give a topological alteration. The title of the work has the word "Phase" in it, but if the work was to be based on topological geometry, then the title should probably be "Topology."


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履歴(含自分用メモ)
2012-09-02 本頁作成。文言大幅改訂。英文未。

2014-08-23
- 5c3に7a9、7a11
- 5c11に7a2<済20140912
- 中原祐介「機能はイラストレーションにしたがう」はART VIRUSに再録されている

20141009【和文本文決定】
- 初版との異同……本文第1、2段落は新規、第3段落はやや改変、第4段落はだいぶ改変、第5段落はやや改変、第6段落はだいぶ改変、第7段落はほぼ新規、第8段落は後半新規です。
20141015【和文注記決定】
■初校時改変(本文第3段落表記)[1英文無関係]:(2)ヘタヘタ、(3)うまうま、(4)うまヘタ>>(2)ヘタへた、(3)ウマうま、(4)ウマへた
■初校時改変(本文第3段落表記)[1英文無関係]:がヘタヘタで>>がヘタへたで
■初校時改変(本文第4段落人名)[1英文無関係]:スージィ甘金[スージー甘金]>>スージー甘金[スージィ甘金]
■初校時改変(本文第6段落人名)[1英文無関係]:田中紀之[タナカノリユキ]>>タナカノリユキ[田中紀之]
■初校時改変(本文第8段落表記)[2英文に影響]:「イラストレーション・ピクニック(イラスト新鋭作家展)」>>「イラスト新鋭作家展(イラストレーション・ピクニック)」
■初校時改変(注記*5c1参照先)[2英文に影響]:ます。*7a8参照。>>ます。ヒロ・ヤマガタ問題→*7a8
■初校時改変(注記*5c2参照先)[2英文に影響]:*7a2参照。>>イラストレーション→*7a2
■初校時改変(注記*5c3参照先)[2英文に影響]:ページ)。*4e2、*7a9参照。>>ページ)。スーパーリアリズム→*4e2。マニエリスム→*7a9
■初校時改変(注記*5c3表記)[1英文無関係]:「(4)うまヘタ」>>「(4)ウマへた」
■初校時改変(注記*5c5表記)[1英文無関係]:「(2)ヘタヘタ」>>「(2)ヘタへた」
■初校時改変(注記*5c5参照先)[2英文に影響]:います。 1c、*5b4参照。>>います。 岡本太郎→1c。「バッド」な具象イメージ→*5b4
■初校時改変(注記*5c6人名)[1英文無関係]:描く」スージィ甘金、霜田>>描く」スージー甘金、霜田
■初校時改変(注記*5c6人名)[1英文無関係]:特にスージィ甘金の、>>特にスージー甘金の、
■初校時改変(注記*5c9内容)[3英訳に影響]:により5、6点の入選作>>により10点ほどの入選作
■初校時改変(注記*5c12参照先)[2英文に影響]:印象です。>>印象です。肩書問題→*6b7。片仮名の「アート」→*8b2*8d8