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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分
には公開しておく意義があるとし、公開している
第三期四回
二〇〇九年六月十日
文献
「『方法』鼎談2000→2001」『美術手帖』2001年1月 pp.443-447
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中:今日は新藤さんはいないですね。夏休みを取るとこの文献研究が半年で終わらないと校長に相談したところ、「自由」と言われました。なので夏休みをとって10月以降にずれ込んでも良いそうです。というわけでそろそろ始めましょうか。前回は詩のアイデンティティーまで進んだので、今日は「『方法』鼎談2000→2001」です。方法鼎談は2000年の美術手帖に掲載されたものです。2000年の秋に鼎談は行われました。なので20世紀最後の鼎談という形です。それでは今回も読みましょうか(笑)録音はいいでしょうか。では中ザワ、足立、松井で行きましょう。あ、足立さんから始まっているのか、それでははじめましょうか。1、平面と時間です。
は:方法主義宣言の起草に立ち会ったのはが二〇〇〇年の一月一日ですから、二〇〇一年一月一日にまる一年ということになります。この一年間は、起草者である中ザワさんの批判はするまいと私は決めていました。
ひ:前もっとそれは伺っております。足立さんの指摘を待つまでもなく、解決自体が不可能、より正確にいえば解決しようとすること自体に正当性が見いだせないまま、それでもげんじょ、状況に対する一種の政治としてすいこ、敢行したある種の解決法の呈示が方法主義宣言でした。
か:ただ、宣言せざるおえない状況があったことは確かで、それは一年たとうとするいまでも変わり、、ません。さらに、政治的行為とは片づけきれない正義が宣言には含まれています。
は:正義を倫理といい直すとして、もちろんそれには同意します。だからそ、こそ起草に立ち会いもしたわけです。二十世紀最後の一年間、私が自らに禁じたのは、たんに気づいたことを述べること。新たな解決法の呈示ではありあせん。
ひ:しかし、それを述べることによって方法主義自体の構図、ポーズが危うくなる。危険の回避が理由なら、足立さんの部分的沈黙もまた政治だったわけですね。
か:本題に入るとしましょう。われわれが鼎談を行うのは八月の週間「図書新聞」に引き続き、これが二度目です。前回、方法主義の倫理と構造については言葉を尽くしました。今回は倫理と構造が自明とせざるをえなかったなにものかについて語りましょう。
は:それは反復が惹起するロマン主義的アイロニーです。私たちの機関誌「方法」第一号に、方法主義は本質的に反復であると私は書きました。無論この場合の反復とは、制作技法としての反復のことではありません。
ひ:同一平面上における反復、AがAであるという同語反復のことですね。
か:同一平面にない神や君主の死と引き換えに生起した反復、諸学諸芸に普遍した還元主義という反復の事ですね。
は:まったくそのとうりです。そして私が指摘したいのはその先です。つまり、方法主義で規定されている平面上の反復が、不可避的に時間軸上の反復も招いてしまうこと。そして時間軸上の反復において顕著にアイロニーが現れていること。
ひ:ちょっとまってください。平面上の反復が時間軸上の反復を招くことは、AがAであるというまさにそのときに、異なる時間を含んでいる……時間を異にすることによって初めてAはAであるといえる……ということでしょうか。ある詩人はその観点から、回文は存在しないといいましたが。
か:私はそう思います。同語反復は形式的には回文の一種でしょうが、その承認は、同一平面上からはなしえません。時間軸への受肉の操作が必須でしょう。
は:そうですね。ただしそれは事後的にその都度なされるべきではあって、けっして先験的になされるべきではありません。なぜならば時間軸上の反復が先験的に把握されるやいなや、主体が未来を、歴史を語ることに、ひいては歴史を終焉させることになるからです。
ひ:さきほどいわれたロマン主義的アイロニーとは、いまいわれた、主体が未来を先験的に把握することであるわけですか?たしかにロマン主義は彼岸への限りなき接近であり、失われた主客合一への憧憬です。
か:ドイツ・ロマン派を引きましょう。到達しえない無限の彼岸を希求しつづける行為主体が、天才として、すべての有限的事物を超越する気分をいだく。ここから反転して現れる主体の肯定性が、ロマン主義的アイロニー(反語)ですね。
は:中ザワさんの方法主義宣言でも、反復への固執を戒律とすることによって、ロマ主義的アイロニーが導かれてしまっています。いくら同語反復がその平面内で無意味でも、時間軸上において主体が反語的に肯定されてしまう経路は開け放たれたままなのです。
ひ:なるほど、足立さんのおっしゃることはよくわかりました。じつは私も、方法などの語によって自らに戒律を課しつづけることじたいが快楽……しかも極上のタイプの快楽……を惹起してしまうことに関しては、いかんともしがたいと当初から感じていたのです。
か:知っています。戒律が惹起する快楽は、反復が惹起する自己肯定性の、現象面ともいえなくもないでしょう。そこに関する苦渋が、宣言前に見せていただいた草稿には含まれていましたね。
は:われわれがあの一文はなくてもいいのではないかと感想を述べたのは、あえて宣言を明快に打ち出すことの方に、より意義を感じたからです。
ひ:そうです。そう理解して、私自身の意志のもと、苦渋的自己言及部分は宣言文から除外して発表しました。
か:ところでアイロニーといえば、ソクラテス的アイロニーも同構図といえるでしょうね。
は:同語反復は「無知」である。しかしそのことを「知っている」といった瞬間、そう承認する主体が肯定されてしまう点において同様です。
ひ:歴史化された堂々巡りに、結局われわれもかかずらっているのだと私は考えます。そして、にもかかわらず状況に対して提言はしなければならない、とも。
か:そのため、われわれが方法主義でとったポーズは、「ふり」でした。同一平面上での反復についてしか述べず、時間軸の反復についてはあたかも知らないように振る舞うこと。現象面においては、快楽の禁止についてしか述べず、戒律こそ快楽であることについてはあたかも知らないように振る舞うこと。
半田・平間・皆藤:そう、それが「ふり」だったことを、われわれはいま、このようにして明らかにするわけです。
中:はいおつかれさま(笑)キメ台詞まで遠いですねこれは。
か:これは最後の松井さんの台詞「方法主義宣言でとったポーズは「ふり」でした」という所が要でしょうか。
は:いま読んだ部分はこれから読む後半部分に繋がる所でもありますね。
ひ:時間軸上、平面上というところがよくわかりません。歴史的な意味の時間軸という事ですか。
中:それは違います。例えば1次元2次元3次元の話をするときに虫の比喩を使いますね、輪ゴムの中に砂糖があって、アリは砂糖にたどり着けない。しかし上から見るとすぐわかる。同じ様に同一平面上でAとAが同じだという事はそこから超越した所からでないとわからない。別の次元から俯瞰して見ないとわからない。
ここの部分は足立さんとメールでやりとりしながら書いた所です。「ある詩人」というのは建畠さんです。建畠さんは回文に関するとても素晴らしい文章を書いています。回文も俯瞰した次元からでしか回文だと認識することができないという文章もあります。
このBTはほとんど反応が無かったですね、残念だなぁ(笑)
か:ちょっとわかりにくい文章かもしれません。
中:この図版の写真は美学校です。いまはもう無いんじゃないかな。
ひ:前は上の階があったと聞きます。
中:そうかな。ちょと思い出しました。企画の人が時間派の人の手伝いとかをやっていて、事務所の名前が最大効率研究所だったんです。
ひ:これも録音があるんでしょうか。
中:あると思います。発掘するべきですよね。
か:このイベントではこれを朗読した以外には何かやりましたか。
中:やってないと思います。タイミング的には2001年の一月一日に方法主義第二宣言をやっているんだけど、その前振りになっています。この文章を書く時はカナダのバンフにいたのですが、日本人とメールばかりやっていたな(笑)図書新聞の時は横にいましたからね。
か:まず中ザワさんの「まえもってそれは伺っております」っていうのはどういうことでしょう。
中:まず方法主義宣言は、これによって芸術の諸問題が解決するとか、解決の方法として宣言が提出されているわけではない。例えばシュルレアリスム宣言は解決法なんです。人生の主要な問題が解決すると。だけど方法主義宣言は違う。解決を初めからあきらめていて、その問題の解決っていうのも正しい事とは思っていない、しかしながら方法主義には二つの面があって、一つはイデオロギーの呈示、もう一つは多様性の状況に陥った感覚主義批判です。なのでそのときの状況に対する反応として敢行したあるしゅの解決法が方法主義宣言だったという事です。方法主義宣言は方法定理ではなくて宣言です。定理っていうのはある種の真理から導き出されたものです。主義というのは主張です。なのでこれは正しいという時は有効な解決法なんだけど、単に政治をしようという事です。
その後に中ザワさんは論理は無意味だけど、それをやろうっていう事自体は無意味じゃないっていう事を松井さんに言わせていますね。進めましょうか。
ひ:中ザワさんが画家だから平面、足立さんが音楽家だから時間軸上といっているわけではないと言うことですね。
中:そうです。ライヒでもウォーホールでもないんです。そこは松井さんが神や君主という言葉を使って説明していますね。神や君主は同一平面上にいないらしいということがわかります。
か:その反復は回文は存在しないというのと同じ様に、反復は時間軸上の反復も生まれてしまい、そこにロマン主義的アイロニーが惹起すると。
中:足立さんの発言では方法主義宣言といっていますが、ここではまだ宣言はひとつしかないので、方法主義第一宣言ということです。そこで宣言されている平面上の反復です、そのままでは反復を語れになってしまい、語ると時間軸上の反復が生まれる。第二宣言は、平面上の反復にういてそのままにして、「語れ」っていう態度をやめろっていう事ね。第一宣言のやりかただと反復をまねいてしまう。そして第二宣言のやり方だとそれがおこらないという事です。「しかし同語反復の絶対は瞬間にのみ語られなければならない。」ようするに瞬間にのみ語られなければいけない。AはAである、BはBである、それを繋げてはいけないと。音楽ではこうなっている、美術ではこうなっている、ということは20世紀は、、、と繋げて語らないという事が足立さんのやりかただと思います。なので「つまり、方法主義(第一宣言)で規定されている平面上の反復が、不可避的に時間軸上の反復も招いてしまうこと。そして時間軸上の反復において顕著にアイロニーが現れていること」。と言っています。そして次に僕がそれだけではわからないので「ちょっとまってください」
といています。これは北九州市美術館の花田さんが「ちょっとまってくださいに笑いました」と言っていました、「これほど統制された鼎談というのは初めて見ました」とも言っていました。ここはそういう考え方に接した事がないとわかりにくいかもしれませんね。
僕がもっている歴史法則主義っていうのはこれがきたから次はこれが起こるだろうなっていう予想を立てることができるんだけど、足立さんは予想を立てるなっていう立場。因果関係があるかはわからないけど、次はこれが起こるだろうっていうのではないんです。歴史を語る事になるっていうのは判るよね、主体が歴史を語ることになると、その後の歴史法則主義的な歴史を認めていない足立さんによれば、それは歴史を終焉させることになると。歴史法則主義は真の歴史ではないということだと思います。この辺の文章ははいろいろ足立さんの直しが入っています。ロマン主義の起源は難しくて、ドイツロマン主義とフランス的なロマン主義はかなり逆な事があります。しかし普通にロマン主義と言ったときは美学上はドイツロマン派の方が正当みたいです。しかし美術史上はドラクロアとかなのでフランス的なロマン主義なんですね。ドイツ・ロマン派は象徴主義なんだけど、フランスは象徴主義的な側面もあるんだけど、精神の自由とか、真の自由とか形よりも色彩とか、感覚的なものなんだよね、そうすると逆。ドイツの場合は実際に目に見えるものよりも精神、そして形を重視する。代表的なのはウィリアム・ブレイクかな、ブレイクは線こそ重要だといっています。ドイツ・ロマン派とイギリスのロマ派は通じていてアンチ近代主義。そしてフランスのロマン派はむしろこれこそが近代だという感じですね。ブレイクについては西洋画人列伝にも入っています。
は:確かに違いますね。
中:このロマン主義的アイロニーの話はドイツかフランスかの話でもあります。
か:それでドイツ・ロマン派の話を出してきたんですね。
中:うん、これはしかし僕の理解の仕方でもある。でもここでは主体の肯定性を何故反語というのかはわかりませんね、主体を肯定して何故悪いのかと言うことについてはここでは突っ込まずに話しを進めています。
は:ではここで出てくるロマン主義的アイロニーは、ドイツ・ロマン派的アイロニーだという事ですね。
中:そうです。
は:今までもロマン主義的アイロニーの話をしていて、何か腑に落ちないものがありました。しかしドイツ・ロマン派的アイロニーということならば良く判ります。ずっとドラクロアとかをイメージしていましたがそのせいでした。
中:そうなのよ、ドラクロアの色彩とか素早いデッサンとか、違うのよね、七月革命とかね。むしろフリードリッヒの絵とかね、そっちです。
は:よく分かります。
中:じゃあ親切に書いておいて良かったんだね、しかしあんまり反応があまり無かったなぁ。シュタイナーもまさにドイツ・ロマン派から現れた神秘主義ですね。ジェリコーとかではないんです。たしかにフリードリヒとかは象徴的な風景とかを描いたり、いわゆる神の栄光をバロック様式で描くみたいなものの対極にある弱さとかそういう印象がありますが、逆に言えばそういう暗さ故に肯定されていくっていうのは確かに反語かもしれない(笑)バロック的な大げさで劇的なものとは対極だけど、同じくらい主体が肯定されているぞ、とね。
その理論面ではそうなんだけど、それが快楽に繋がっているという話ですね、僕は快楽でも別にかまわなかったんだけど文中には極上の快楽とか出てきていますね、、、おお、新藤さん来ました、今佳境に入っていますよ、ロマン主義的アイロニーです(笑)。しかし新藤さんの言っていた話とは違うかもしれません、フランスとドイツの話です。
し:遅れました。。。
か:歴史の終焉の辺りを新藤さんに聞いてみたいです。
中:それでは「新藤さんに訊く」(笑)
方法鼎談の初めを一通り読んだ所です。初めから意味がわからないぞと言うことで順番にいっているところです。なぜ判らないかというと中ザワも足立も松井も批判内容に対して「それ」とかいってて、肝心の「それ」を何かを言っていないまま話を進めています。そしてその「それ」が何かというと、「反復が惹起するロマン主義的アイロニー」だという事が判ってきます。そして次に同一平面上の反復と時間軸上の反復がわからないと。これは僕も足立さんに教えてもらいながら書いた文章なんですが、美学上には普通にいわれている事でもあるのですが、ここは判りましたか?あとは回文は存在しないとか。
し:そこは判りませんでした。
ひ:回文が存在しないというのは、「しんぶんし」と言った時点では回文かどうか判らないと、文字をみて確認しないと判らない。
中:しんぶんしと言ったときには二時五十九分に読んだ「し」と三時に読んだ「し」っていう字が同じだという判断をしないと回文かどうかが判らない。そして同じだと判る人は同じ平面にいたらわからない。平面を超越した次元にいないと判らない。それが例えば時間軸という言い方で次元を超越できる。
し:平面と言うことは紙にしんぶんしと書いてあったら回文は存在すると思うんですが。
中:それは読む方向はわからないけど一旦時間軸に置き換えていますね、そうすると無理だという事です。
し:ちなみにページは?
か:#p.444の上から2段目の真ん中より後ろくらいです。
中:その後は松井さんの発言で同語反復っていうのは回文の一種だと言っています。わざわざ詩人に言わせると(笑)。その辺りで平面に於ける反復と時間軸上における反復っていうのを説明しています。
は:第二宣言の足立さんの発言では歴史という言葉が使われていますね。
中:それはね、2時59分と3時の間に歴史がはじまるんですね、足立さんにとっては。そして、その歴史は判断することなく生起していくものなんですね。それが判断して重要かそうではないとか、これの後にこれがあったから、次はこれがあるかもしれない、とかは歴史ではないという事です。そこで歴史法則主義みたいなものは歴史を終焉させるといっているんですね。
あとロマン主義的アイロニーについては、半田さんとかはドラクロアとかを想像していてよくわからない状態になってしまったんだけど、むしろフリードリッヒだと。
し:ドラクロアとフリードリッヒを説明して頂けますか。
は:まずアイロニーとはどういう状態なんでしょう。
し:アイロニーっていうのは神様が信じられている所で神様っていう概念を否定するような姿勢とか主義だと思うんですが。
中:そうするとアイロニーっていうのは主義になるの?
し:神様っていうのを素朴に信じている人達の前で、神様なんかいないよっていう姿勢です。そして、ロマン主義がつくと、単なるアイロニーではなくて、ロマン主義っていうのは神様はいますよという考え方で、ロマン主義的アイロニーというのは、アイロニーなんだけどロマン主義が入る。神様はいないという事は判っているんだけど、神様はいるという所に突っ込んでしまう。というのが僕の理解の仕方なんです。
中:そうするとこの文章とは違う考え方なのかな。ちなみに足立さんのチェックなしに話しているけどいいのだろうか(笑)。この問題は黒瀬さんたちとの話でもあんまりピンときていなくて、未だに聞いてみたい所です。僕は今までアイロニーっていうのは現象だと思っていた。ソクラテス的アイロニーっていうのはここにも出てきます。本来のアイロニーの出発はソクラテスだと思うんだけど、そこでは皮肉と反語、どちらにも訳されているんだけど、ソクラテスの問題で使われていて、それがロマン主義にも応用されているのがロマン主義的アイロニーだと思うんだけど、ソクラテス的アイロニーは、私は何も知らないと。世の中には意味が無いというアナーキーな状態なんだけど、ソクラテスがそこに付け加えているのは、「私は何も知らない事を知っている」という。この事で優位に立つことが出来るんだよね。何も知らないの時点だけだとただの否定なんだけど、しかしそのことを知っているというと、そこで自己肯定が現れて反転する。知らないから知るへの反転と、自己肯定の始まり。それが反語、皮肉だと理解しているんだけど、いいのかなここに関しては。
そういう意味でいうとアイロニーの基本は、主体の肯定が立ち現れると。ひきずりおろそうという、意味など無いという事とは違うと思っていたんですよ。ロマン主義的アイロニーはソクラテス的アイロニーと同じ構図だという理解の仕方でここは語っています。
寅さんが判りやすいたとえだと僕はおもうんだけど半田さんにはわかりにくいといわれた例えがあります。レビューハウスの注でもだしているんだけど、ついらいよつらいよと言っている。つらいというのはかわいそうにで終わり。つらいというのはよくない状態。だけど、男はつらいよっていうのは寅さんの肯定が始まっている。それがロマン主義的アイロニー。苦しさを引き受けると。芸術家は不可能なことに対して苦しさを引き受けて立ち向かっていく。それがロマン主義的なあり方。
ひ:ソクラテスの場合はそれを一人でやっていると言うことですか。
中:ソクラテスはつらいという事が全面に出ているわけではないけど、理論で導き出している。だからあんまりつらさに関して立ち向かうというバイアスはない。ロマン主義的な芸術家はつらさに立ち向かっている。
例えばターナー。ターナーは嵐の絵を描くために自分で嵐の絵を描くために柱に自分をマストに縛り付けてもらって何時間も描いた。それがロマン主義的アイロニーです。それが画家はつらいよという事です。そうやって、神の栄光が描かれているわけではない。何故つらい思いをしてそういう絵を描かなければいけない。しかし神の栄光をたたえる絵と同じ様に崇高に見えてくると。
し:その普通のロマン主義とちがうのは、初めに否定的な契機があるかどうかの違いですか。
中:ドイツやイギリスの場合は最初にそういう契機がある。それは近代の否定。自分達は抑圧されているという意識がある、しかし普通のロマン主義、フランスのロマン主義には当てはまらない。
し:この場合、ドイツの事を考えた場合、ロマン主義的アイロニーとロマン主義は一緒と考えた方がいいんですかね。フランス的な、超越的な追い求めるタイプです。
中:神を求めるのはドイツやイギリスの方が強いとも思うけどね、ターナーは嵐の向こう側に神を見ていた。フランスの場合はもっと市民社会や生活を描く方向に向かっていく。だから設定でも変わってくるんですが、ロマン主義はもともとバロック的ではないにしろ、廃墟とかそういう中に神を見つけるというタイプもあるしね。ドイツもイギリスも廃墟好きですね。
は:廃墟ブームは日本にもありますね。
ひ:写真集も出ていますね。
は:軍艦島も旅行地になっています。
中:立派な廃墟っていうのはアイロニーですね。
今までの話とは違いますかね。
し:僕の考えていたものとは違いましたね。
か:新藤さんの場合はどういうものですか。
し:男はつらいよでいえば、寅さんが理想している生活は無理だと自覚しつつ、それを求めていく事が重要なんだといって旅に出る。理想を手に入れるのは無理だとしつつも追い求めてしまうというものが寅さんですね。
中:初めに言ったときに違うなと思ったものは、初めあにアイロニー主義みたいなものがあるという話をしたときでした。アイロニー主義というのは想定していなくて、ソクラテス的アイロニーもロマン主義的アイロニーも肯定性を持っている。否定をしていくことで肯定性を生む。ロマン主義も理想に求道者の様に向かっていく。理想にたどり着かないのは駄目だろうではなく、理想を追っているから立派だと肯定できるという。だからどちらもアイロニー主義というものは無いというのが出発点での違いかな。
し:ソクラテスだと最後は肯定的なものに変わるじゃないですか、僕のロマン主義のあり方では、肯定的なものにはならないです。
中:本人は肯定していなくても、はたからみると肯定的に写りますね。
し:そうですね。
中:それだけの違いかな。ソクラテスの場合は自己肯定が入っていて、ロマン主義の場合には自覚か無自覚は難しい所ですね。
話は変わりますがICANOFでの吉増さんはロマン主義的アイロニー丸出しだったですね。いつもこんなに苦しい思いをして言葉をやっとの思いで書くとか、そいういう事ですね。一応アイロニーについての確認として「歴史化された堂々巡りにわれわれもかかずらっています」というのがアイロニーについての確認という事です。初めの「方法主義宣言は政治だった」という事もそうです。「ふり」というのは政治についての話だけであって、アイロニーについての話ではないです。ただしアイロニーに対する話とは関係ないけど、アイロニーの話をしないで済ませるために時間軸とか戒律とかの話をしているわけです。という事になっていますが。
し:方法主義宣言はふりではないけれど、そこにおける政治的なものについてはふりだと言うことですか。
中:方法主義宣言については、論理的な事について言っているのが一つ、もう一つは状況に対して、具体的に言えば多様性の快楽主義の衆愚的な状況に対して反抗するというのが合わさったのが方法主義宣言です。
し:それは初めは両方「ふり」だと思っていたのですが、そうではなくて、政治的なものは全部「ふり」だったのですか
中:ここで言われていることに関しては、論理的な問題に関しては触れないという「ふり」をしなくては進まないと。なので触れないで済ます「ふり」をしているという話です。
同一平面上の反復に関して言えば、時間軸上の反復についても議論として論じなければならない。しかしその話をすると理論が成り立たない。なので時間軸上の反復に関しては話を進めるために、あたかお時間軸は知らないようなふりをして話を進めると。快楽の禁止という事自体が快楽だと言うこともすぐに判ることなんだけど、それは言わない、あたかも知らないようなふりをすると。何故その論理を通そうとしたかというのは政治なんですね。そこが「ふり」の部分です。
論理の部分は本当はそれが正しいとは起草者も思っていない。しかし正しいと思っている「ふり」をしていると。方法主義は起草者自身が問題があることには気が付きながらもやるしかないという事に関しては「ふり」ですね。それでは次行きましょうか。2番ですね。コギトの正否です。どうしましょう、。
か:はんださんがコギトの正否っていうのを読めば良いんじゃないですか。
は:ええ、じゃあ、コギトの正否
中:それでは行きましょう。
し:さて、先ほど私は反復の承認は事後的にその都度なされるべきであり、先験的になされるべきではないといいました。
ひ:反復の承認を事後に限り、あらゆる先験性を排除するならば、言葉の権能はかなり限定されるでしょう。
か:言葉は反復にのみ使われるということになりますね。それは言葉の凡庸さをあえて引き受ける事といえそうです。
し:そうです。別のいい方をするなら、反復は決して架橋されてはならない。遮断されなければならず、もはやそれは「主義」とはいえない。
ひ:はい。これまでひととおり足立さんの理論を展開していただいたところで、私には質問があります。
か:「足立さんの論」というほど個人的でなく、普遍性のある論旨と思って聞いておりましたが、どうぞお続けください。
し:想像すると、どうして主体が歴史や未来を語ってはいけないのかというようなご質問でしょうか。
ひ:多分そこに行き着く話だと思いますが、順を追うと、ロマン主義的アイロニーを禁忌と捉えるか、仕方ないと放置するかの話です。
か:「いかんともしがたい」だと、表向きの苦渋を隠れ蓑に、さらなるアイロニーによって表現自体をまたもや肯定してしまっているではないですか。その主体の肯定性こそモダニズムを、資本主義を肯定してきたものなのです。
ひ:現代思想の潮流が、モダニズムや資本主義を肯定してきた主体、すなわちコギトの否定に躍起になっているということは、いちおうは知っているつもりです。逆にいえば、その現代思想の潮流に疑問を投げかけているのです。
か:つまり中ザワさんは、足立さんの論を、コギトを否定してきた現代思想の一典型とみたうえで、質問しているわけですね。
し:そういうことであるならば、いわれるとおり、私の立場である唯物論にしても、それが唯一の正義であるという論理付けはなしえません。ただ、いわれなき神や、君主に権威が帰属するよりも、唯物論の方が、まだしも正当性をもちうる可能性があるとは思っています。
ひ:私はべつに唯物論に反対はしませんが、真の唯物論は精神の存在の否定さえ行わない、つまり関知しないと考えます。すなわち意図的に狭義に解釈されない限り、唯物論的な権威主義を肯定するものではもちろんないと同時に、その否定という結論をただちに演繹するものでもない。
か:ロマン主義的アイロニーによって主体は論理的に肯定され、コギトが生起します。その生起したコギトに論理的正義がないと同様、そのコギトの否定にも論理的正義はないということですね。
し:そういう意味では、私の「反復の遮断」は正義の呈示ではなく、論理的に可能なひとつの方策ではあります。「主義でない」とはそういう意味です。
ひ:ええ。少なくとも、足立さんがいわれていることに論理的瑕疵がないことはわかります。
か:しかし中ザワさんがいいたいことは、モダニズムや資本主義、さらにはそれらを成立せしめた形而上学や権威主義も、論理的に否定しえないひとつの方策ということになるはずだということではあいですか。
し:知っています。われわれ三人が非公式に会うと、いつもそこで意見が食い違う。今日は、それらも明らかにする日かもしれません。折しもドイツは夜の八時。リハーサル後のビールが美味しいひとときです。
ひ:こちらカナダは昼の十二時。氷った湖でスケートしました。暖を採ろうと、紅茶にブランデーを落としたところです。
か:日本は未明の午前四時。先ほどまで鍋を囲んで飲んでいましたが、もう一杯くらいお付き合いしますよ。
新藤・平間・皆藤:では、乾杯!
中:どうでしょう。
は:この鼎談は実際に読んだんですよね、どんな感じでしたか。
中:国語の時間に当てられたような読み方でしたよ、演劇の時間のようにはなりませんでした。
は:コギトの発音はどこが強く発音するんですかね。
し:コギトですかね。
は:普段使いませんからね。
し:この場合はどの様な意味で使われていますか。
中:自己肯定する主体です。詳しい人いますか。
し:僕は普通に自我という意味で捉えていました。
中:そんな所ですね、主体とか自我とか。ここで言ってる意味は分かりますか、確信を言わないまま次へ次へと行っていく感じです。
は:新藤さんに訊いてみたいんですが、「現代思想の潮流が、モダニズムや資本主義を肯定してきた主体、すなわちコギトの否定に躍起になっている」というのはどういう事でしょう。
中:その部分も、現代思想とかをあまり知らない人とかだと、学校ではそうではなくてアイデンティテイを持ちなさいとか自分らしくありなさいとか教えられるので、そこには齟齬があるので難しい所です。ここはきちんとやっている人は少ないと思っていて、コギトの否定ね。僕は「方法」8号で書いたんだけど、話者と非話者の話。この話者とはモダニストの事ですかとかそういう話を田村さんとしたんですが、ここがそういう話です。それと関連するのが最初の言葉の権能は限定されるでしょうっていう所です。
僕の言葉は伝わっていますかね、もう少しはっきり書いても良かったと思っているんだけど、僕が言いたいのは現代思想の潮流と足立さんが同じだと思っていた上で、コギトの否定に躍起になって禁忌としている事に対して疑問を差し挟む立場だという事ね。現代思想と足立さんを一気に的に回しているんです。
か:なんとなくわかります。「ロマン主義的アイロニーを禁忌と捉えるか仕方ないと放置するかの話です」の所です。そこで話がずれるんです。
中:仕方ないので放置しますといっても良いよね、そこまで書いていないけど。自己肯定性が出てきた瞬間に、現代思想をかじっている人は罰を下すのね。自己肯定性を出したからだめっていう現代の主張に対していっているのね。
は:教育の場とは逆ですね。
中:そうなのよ。
し:バルトと近いかもしれませんが、単純な主体は否定するけど、ふにゃふにゃした自分の快楽に身を任せるようなだらっとしているけど実はそれが真実だというのは一方の文脈であって、教育して自分の意識をもって自己責任で判断するというのは否定するけど、快楽に身を任せて生きる主体性のようなものは肯定されている気がします。
中:それはなんかずるいのではないかと思ってて、話者と非話者の話でもあって、話者のふりをした非話者とかあるんだけど、でもそうですね、脱構築もそうだし浅田彰もそうです。
し:のりつつしらけるしらけつつのるみたいなね。モラトリアムと言ったのはだれだっけ、忘れたけど。
で足立さんの立場は唯物論と言っていますが、そこから足立さんの歴史観を逆算すればわかりやすいですね。#p.445の冒頭で「時間軸上の反復が先験的に把握されるやいなや、主体が未来を、歴史を語ることに、ひいては歴史を終焉させることになるからです。」ここで足立さんは歴史を唯物論の中に入れておきたいという事がわかります。
海上さんとの往復書簡をやりましたが、その問題と同じ問題が起きているんですね。海上さんも神や君主の時代には戻れないと言っていますが、僕は戻れると言っているんですね。
し:これを読むと中ザワさんの方が唯物論の様にも見えるのですが。
中:そうんんだよね、僕は唯物論的に神権政治も王権政治も等価に見ている。それもあってちょっと僕の言いたいことが二つ出てきてしまった。一つは僕の方が唯物論を言っているというのと、もう一つはロマン主義的アイロニーにおける自己肯定性を否定したくないという事ね。
し:歴史が終焉するというのはどこが終焉するんですかね。
中:歴史を物語としてみたり、語ってしまうと本来の歴史ではなくなってしまうという考え方だと思います。歴史の終焉よりも歴史の死と言った方がわかりやすいかな。
中:ちなみにこれは僕が一人で書いているのですが、足立さんとのメールのやりとりをしたのですが、足立さんは結構直しています。「ここは文句があるけどぎりぎり許容範囲かな、でもここは直して下さい」とか、乾杯の所はさすがですとか言ったりしながら。
か:足立さんの「私の反復の遮断は正義の呈示ではなく、論理的に可能なひとつの方策ではあります」というのは、僕は正義の呈示だと思っていたので、そうかと思いました。
は:私も正義の呈示だと思っていました。
中:ここは足立さんが僕の意見に寄った所です。足立さんに寄ると反復の遮断が正義の呈示なんだけど、それは要するに神や君主に権威が帰属するよりも有唯物論の方が正当性を持ちうるという意味において、反復の遮断の方がまだしも正当性をもちうるというのが足立さんの言い方なのね、だから反復の遮断は足立さんにとって正義で、民主主義は正義なんだけど、僕は足立さんの言っている正義も徹底していくと、その正義すらなくなるんじゃないのという議論をしています。しかし足立さんはそれを知っている。でもそういう事で議論はしたくないという。「まあ中ザワさんが議論したからしかたなく返したけれど僕はおもしろ事がしたいんだ」といった感じで、さっきのバルトの様な所に足立さんはいるように見えます。
なので僕が唯物論を徹底するとその立場もおかしいという指摘には、「そいういう意味では正義の呈示ではない」といっている所ですここは。でももともと主義ではないという事も言っている所です。その後の「われわれ三人が非公式に会うといつもそこで意見が食い違う」というのはさらっと言っていますが、おまえら公式的に会ってるのかって話ですよね、そんなに偉かったのかおまえ達は(笑)公式に会うとこの前の図書新聞の時のようになったり、方法主義第一宣言を出したり
、そこでは三人の意見の食い違いは無いように見せているんですね、だからここは自意識過剰的な部分ですね。文献研究でやっと話せました(笑)
凍りっていう字はこれでいいんだっけ、良いのかな動詞に使っても。
は:日本だと田んぼですかね。
中:八戸はそうかもね(笑)田んぼでスケートしたんだ。
は:友人が。
中:氷が溶けてあ〜!とかね、フリードリヒはそうですね、自分が氷の上に居て氷が割れる、そして弟が助けに来ておぼれて死んでしまう。そこでロマン主義的アイロニーが立ち現れる(笑)
か:そうだったんですね。氷の上でのスケートはどうでしたか。
中:ロマンチックでしたね、アーティストインレジデンスって楽しいんだと思いました。ニューヨークは仕事といった感じでしたね。バンフは30人くらいいました。風光明媚な所でお互い切磋琢磨しながらね、7週間という期間も良かったですね。いいですか、次にいきましょうか。次は批判と擁護です。じゃあ半田さんが復活しましょうか。
三っていうのと最後は平間さん言って下さい。
ひ:三-批判と擁護
か:宣言を読む限り方法主義社はモダニストなので、私も一年ちかく、モダニストの「ふり」をしてきました。
は:起草者であることも大きいですが、私は以前からアンチ・ポストモダニストとしてモダニストを自認しています。
し:三人のなかでしゃイデオロギー的に私が一番「右」だと思います。
か:ポストモダニズムが惹起した相対主義的、快楽主義的、多用式主義的状況に対して、なんらかの提言をしようというのは理解します。それどころか、そのような状況が生み出すソフトな抑圧に対して私自身批判的である、それゆえ方法主義に荷担したわけです。その際、「論理に従う」という言い回しが出てくるのも、致し方ないかもしれません。
は:しかし、だからといって、アンチ・ポストモダニズムがそのままモダニズムに直結はしないだろう。と、こういわれたいわけでしょうか。
し:目に余るポストモダニスト的状況を前に、そのままモダニズムに直結させるくらいのことはして構わないのだと思います。
か:そここそ倫理の問題です。ポストモダニズムでない場所に帰ってくることはなんとかできないだろうか。たしかにモダニズムの批判は、モダニズム内部の言葉ではできないことであるのですが、そこを安易に帰らないという倫理が私はほしい。私は相対主義の抑圧に比べれば、論理や権威の暴力の方を好みます。しかしまた、相対主義のあとに権威主義に帰るしかないという考えにも同調しかねるのです。
は:権威主義に帰るしかないという考えに同調しないといういい方は綺麗ですし結構です。が、それ以前に、権威主義に帰ることをよしとしないということが倫理として策定されていることこそ、私がここで問題視しているものです。つまり、なぜに権威主義批判が、いつのまにか正義のような顔をして立ち現れているのでしょうか。
し:現状批判がモダニズム批判として現れることは、それこそロマン主義、象徴主義、シュルレアリスム、ポストモダニズムの系譜です。それらをまとめてある種の権威主義批判といってもいいでしょう。だからこそ主体が肯定され権威と化してしまうロマン主義的アイロニーと呼ばれるのです。
か:ではお尋ねしますが、方法主義宣言を中ザワさんが出された理由は現状批判のためではないのですか?そこで問題にされている現状とは、まったくモダニズムと資本主義の結果なのではないでしょうか。
は:一義的にはポストモダニズムの結果だと考えます。
し:しかし宣言文からは、民主主義体制と資本主義こそが、現在の現在の放縦と怠惰を生んだというふうに読めます。もちろん民主主義体制と資本主義はポストモダニズムを支えてはいますが、むしろモダニズムの原理として登場したものと考えるほうが理にかなっています。
か:少なくともポストモダニズムは、それこそがモダニズム批判でしかなかったとすれば、よくいわれるようにそれもモダニズムの一種、モダニズムの延命装置としてはたらくわけです。
は:では逆に聞くと、足立さんはモダニズム批判のためにモダニストの「ふり」をする方法主義に荷担、部分的にであれ賛同したということでしょうか。
か:先ほど、相対主義の抑圧に比べれば、論理や権威の暴力の方を好むといわれましたが、好みが変われば結論も変わるのでしょうか。
か:そうです。その程度の理由です。それを公言しないまま一年近く耐えてきた、それをいま明らかにしているわけではないですか。
は:なるほど、やはり、初めから立ち位置が違っていたわけですね。私が理論を持ち出したのはm古典的モダニズムへの復古主義としてでもあったわけです。
し:いまようやく明らかになったことがあります。方法主義は足立さんいとっては権威主義批判としてのロマン主義的要素をもともと孕んでおり、だkらこそロマン主義的アイロニーの惹起を問題視した。
か:しかし中ザワさんにとっては権威主義擁護の新古典主義的要素をもともと孕んでおり、だからこそロマン主義的アイロニーの惹起を問題視する態度を問題視した。
は:では松井さんにとっての方法主義はどうなのでしょうか。先ほど「右」との自覚を言われましたが。
し:ひたすら方法的にお答えするとするならば、ロマン主義的アイロニーの惹起を問題視する態度を問題視する態度を問題視するということでしょうね。
ひ:BT
中:最後に編集者がいたね(笑)
か:松井さんの最後の発言はなんなんですか。
中:これは僕が書いたですが、もうパズルのように書いたというのを思い出しました。
か:深い意味はありますか?
中:意味の内容よりも文章の形式の方を優先しました。
か:こうきたからこうくるみたいな。
中:言いたいことを言うために文章を使うのではなくて、文章の形式の方が先にあって、それによっていいたい無いようも変わらざるおえない。それを「方法的に」と言っています。これを見たギャラリーセラーの武田さんは、足立さんも武田さんも方法じゃないねと言っていました。僕が書いたとは知らなかったみたいです。ただ松井さんを「右」にしたのはこの文章が初めてで、松井さんはおもしろがってどこかで書いたか話したかしていました。自分が「右」です、と。しかし僕の言いたいことは一応ちゃんと出ていますね、「何故に権威主義批判が、いつのまにか正義のような顔をして立ち現れているのでしょうか」という所です。疑問形ではなくて反語だよね。その後の僕の発言では「一義的にはポストモダニズムの結果だと考えます」と言っていますが、僕は現状はそうだとおもうんですが、モダニズムと資本主義の結果だとするのが足立さんで、現状認識も違うという所ですね。
し:現状というのはどういうふうに捉えているんですか。
中:快楽優先の多用式主義のなんでもあり状況です。あと資本主義の事についたはあまり僕は言っていないんですが、足立さんが持ち出していますね。足立さんは「左」でこまりますね(笑)
は:さきほどの言いたいことは凄く判ります。いろいろ想像が付きます(笑)
し:個人的な感覚としては、役割としてやらないといけないのか、純粋に信じてやっているのかですね。権威主義批判がいつのまにか正義の様な顔をしてしまうというのは。
中:見分け方はあるのかな。
し:外側から人が見る場合と、自分の中での理由付けという場合があるんですが。
中:個人的な意識付けはどうしてわかるんでしょう。そこが難しいんだよね。僕の方法主義は本気なのかふりなのかっていうと、両方なんだよね、本気だといわれると「ふり」だと言いたくなるし、「ふり」といわれると本気だと言いたくなるしね。
は:役割っていう感じもしますね。
中:そうね、誰かこっちをやらなければいけない、じゃあ気が付いたから俺かというのはありましたよ。まさか自分がこっちをやるのかというのもありました、、、本気だよ(笑)
あと方法主義をやっていてみんなから言われるのは例えばポストモダニズム批判をやりたいのはわかるけど、それがモダニズムに直結はしないだろうと、それは難しいとみんなに言われます。しかしその態度が現代思想の潮流なんだよね。でもここでも書いていますが誰からも反論はなくて、BTのこの記事も読んでなくて、同じ指摘を今でもし続けられています。
し:したくなる気分もわかります。
中:あとは宣言文の中で抜け落ちている部分があると。これは「妃」にも書いているのですが、そのせいで、ポストモダニズムがそのままモダニズムになると思われている節もあります。その部分は松井さんに言わせているかな。
は:松井さんが「あの一文」といっている所ですね。具体的にはどのような文章でしたっけ。
中:それはね、妃を読みますね、「足立の提案によって、第一段落にあった次の文章が削除されたことであった。」括弧、「しかしながら、方法による統一を希求すること自体、極めつけの感傷であることもすでにわれわれは知っている。来るべき世紀においても、理性と感覚の葛藤は芸術の名の下に繰り返されるほかない。」ですね。もろにロマン主義的アイロニー的にも読めてしまう文章なんだけれども、先ほどもあったように、方法主義が快楽であるという事は知りつつやっているというのと、解決は図れないがこれを出す事による構図は、論理的には解決が図れない事を知っているという事ですね。しかしこれが無いとモダニストになる事で全てが解決するというように読める、第一宣言がね。これが無くなったせいで「ポストモダニズムの批判はモダニズムじゃ駄目なんだよ」と教えられる事になっています。
し:そういう人たちはねじれがあってモダニストの立場を取っているという事がわからないという事ですね。ポストモダン前提で、それをなんとかするためにあえてモダニストという立場をとっているという事に気が付かないという事です。
中:僕に対して「それはおもしろかもしれないけど、20世紀の初めからずーっと行われてきたことなんだよ、さんざんやりつくされてきた事なんだよ」と頭ごなしに言われたりもしました。
し:ねじれたモダニズムだという事を理解していないという事ですね。単なる回帰ではなくて、モダニズムの究極的な徹底なので、普通からみるとモダニズムにみえるけど、ポストモダンに対してのものなので、普通のモダニズムとは違うんですね。
中:そう、ある意味ではポストモダニズムなんです。モダニズムはもうこれしかないとか、これ以外は真はないというものじゃないですか、僕の場合は選択出来る一つのものとしてモダニズムがある。取り替え可能なので、だからぜんぜんモダニズムではない、ポストモダニズムの中のモダニズムではあります。そういう意味でポストモダニズムだと言われるのはあっていると思います。
あるいは美学的なモダニズムと普通の意味でのモダニズムの違いがあって、普通のモダニズムには進歩主義が入っている。でも美学的なモダニズムには最終的には同語反復が入っています。そうすると進歩っていう概念もそぎ落とされた概念です。でも但し書きを書かないとわからないかもしれないんだけど、僕は進歩みたいな事は一回も思ったことはなくて、進歩だと思って方法主義を呈示したこともない。そして循環史観も進歩ではなくてただ循環しているだけという状態だから、進歩とは違うんですね。でも歴史を単なる事実の羅列としてしか見ないような歴史観は、歴史に構造をみるとかね、物語に当てはめて過去や現在を語ろうとする態度はモダニズムに似ていたりもするので、モダニズムだといわれてもその通りだと。でもそうなってくると、どっちなんですかと、自分でも自分の本心っていうのがあるのかどうかわからないです。
は:オウムの話を思い出しました。
中:文字の意味と反意味です。出だしの所が進化論の本で中学生の時に鸚鵡の話を読んだという所で「TPOに応じて適切な事を言う鸚鵡がいて、凄い、まるで意味が分かっているかのように気の利いたことを言う鸚鵡がいる。だが、その鸚鵡は意味を分かってしゃべっているのではない」だけどその後僕は、「僕が鸚鵡だし鸚鵡が人だし、そこには差がない、意味があって話しているのではなくて、反応で話しているだけ」と言う風に考えるようになります。そこが今の話と繋がりますね。だから外からみた本質かふりか、と自分から見た本質かふりかっていうのは僕にとっては二つとも無いんです。TPOに応じて話しているから反応なんです。
し:そいういう行いはポストモダン的なんですが、中ザワさんはそこでモダニズムを選びつつ、そこから抜け出しつつ、単純な回帰ではなくて、ちょっと違うモダニズムを突き詰める事によって、モダニズムを内側から食い破ろうっていう意識はあるんですか。
中:ないです。食い破ろうっていうのが無い。違う所に行ってしまったという所はあるかもしれないけど。でも確かにポストモダニズム的であって、ネタとして等価なんですね、自分自身がマッチョにやっていこうというのは「ふり」として楽しくやったりはしているのですが、本心かどうかっていうのもまたわかりません。
し:「ふり」としてやっているのをわかっている人がいると嬉しかったりしますか。前に高橋悠治にそういう文章を書かれたという事が書かれていましたが。
中:そうですね、それはそういう風に言ってもらわないと駄目ですよね、つまんないですね。逆を言われたりはしますけどね。
か:そこまではなかなか言えないですよね。
中:でも感覚的に判る人はいますけどね、アペルの高橋さんですが、方法主義宣言を出した直後に「バカCGも方法も一貫していますよね、笑いで」っていう風に言ってくれました。僕の五十音ポリフォニーを聞いて全部凄く笑っている人もいました、その時には、笑いは確かに目的なんだけど、笑いだけでは済まないんだけどなという話もありますね。アーティストって難しいなぁ(笑)
---20110525 文責:平間貴大