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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分
には公開しておく意義があるとし、公開している
第二期十五回
二〇〇八年九月十日
文献
「その後のバカCG―HISTORY OF BAKA CG―第11回・最終回」『イラストレーション』1997年5月号 p.126-129 #p.343-337
「中ザワヒデキインタビュー 聞き手・千葉成夫」『藝術評論』第12号 p4-25 #p.348-371
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その後のバカCG―HISTORY OF BAKA CG―第11回・最終回
|第14章 新大陸論
●モダニズムの原理と新大陸
●20世紀の芸術史と、その後
●「続き」と「文脈がえ」
●新大陸アンガーシュマン
●後書き
中ザワヒデキインタビュー 聞き手・千葉成夫
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-中ザワが持ってきたキッズボックスで全員で遊んでいる-
中:僕の予定ですが26日くらいに北京に行くので来週は授業できます。なので来週も授業できますね。キッズボックス見てただけなんだけど疲れましたね(笑)ええと今日は15回です。前回の続きからですね。
か:そうですね、キッズボックスについて僕は聞きたいのですが、どういう経緯で最終的にクリック主義がキッズボックスに現れているのか、または他のソフトや作品にクリック主義を反映させるならどういう風になるんでしょうか?
中:クリック主義に関しては単純に触っていたら出てきたもので、最初からクリック主義を狙っていた訳ではありません。キッズボックスの経緯自体はザザマシンです。318にイラストがあります。注11の下の方に「そんな矢先に中ザワのフロッピー『バカビデオドラッグ』をデジタローグで見つけたアスク講談社は、即座に同CD-ROMに中ザワによる『バカトリップモード』を収録することを思いつきました。ちなみにこの『バカトリップモード』がきっかけとなって、同一のスタッフ陣による『KID'S BOX』というCD-ROMが誕生したという後日談まであります・B」とありますね。だからバカトリップモードは初めはザザマシンに収録されていたものなんだけど、それを本体いらなくてバカトリップモードだけで出来るんじゃないかと、それで子供向けにして出来ると。それでキッズボックスになりました。
か:不可視関数試論とどちらが先ですか?
中:キッズボックスです。それはアスクと井上さんと僕で仕事をしたんだけど、不可視関数試論は全部自分でやりました。では次進みましょうか。その後のバカCG第11回ですね。
ひ:第14章新大陸論です。●モダニズムの原理と新大陸 ですが、モダニズムは拡大再生産の原理であり、しとたびその有限性が自覚されるや否や、個人をとりまとめる国家は排他的な帝国主義路線を歩み、未開拓地獲得に躍起となり、それはかつての新大陸だったアメリカ国による月面征服にまでおよんでいると。そこの未開拓地とモダニズムという注では、最初は無限に土地が無限に存在する事を前提として、その有限性が自覚されるや否や帝国主義になっていくというのが凄くわかりやすかったと思います。あと、「世界は多元的なポリフォニー」とか「マイ・モダニズム」とか「小さなモダニズム」という言葉が使われていますが。
中:そうですね、「マイ・モダニズム」というのはこことその他少しでしか使っていませんが、もう使っていませんね。
か:モダニズムという言葉が様々な所で使われています。
は:「シングルメディア」は今も使っていますか?
中:使っています。方法でも使っていて「単芸術」と言い換えています。
ひ:「マイ・モダニズム」という言葉は凄く面白くて、
中:じゃあ平間さんにあげる(笑)
ひ:個人的な話なのですが、僕が音楽としてフィールドレコーディングを始めた時にはとにかく全部録音しようとしていました。しかしこの世の音全ての音は録る事が出来ないと気付いて、やめて今度はスタジオに入って余計なノイズが入らないようにして音楽を作って、最後は録音をやめたのですが、勝手にマイ・モダニズムに当てはめてみました。あと注3の注Jの自主レーベルについてですが、最近は自主レーベルを作る人が凄く増えています。これもマイ・モダニズムといえると思います。
中:僕はこれはマルチメディアアートについて考えていたんだけど、音楽も自分でCD-Rを焼けるって言う事はどういう事かっていうと、そういう事だと思います。
ひ:絵を描いたり造形物を作ったりする人は、元々マイ・モダニズムを持っていると思います。
中:そうですね。
ひ:それは発表する場所とかをその次に考えて行かないといかない。音楽の場合はCD-Rが作品で、それを配ったりする事で作品発表という形をとれるかもしれないですが、絵画の場合はそれはどこになるんですか?
は:ええとね、私が学生の時は貸し画廊でした。
中:そうだね。
は:貸し画廊を借りて個展をやるのがスタートで、あとは団体展。そこに出品して発表するっていう二つのやり方があって、いまはワンダーウォールとか、横浜でもあるけど行政が場所を提供しているという事もあります。
か:コンペは増えてきていると思います。
こ:コンペで賞をとるとまた展示が出来たりね。
中:公募展は昔からあるけど、それに魅力があるかどうかはまた別の話で、魅力があればそれで良いしね。
は:行政がやっているっていうのは最近増えたかな。音楽であれあ自主レーベルを作って出すというのと比べると、自分でファイルを作って出すとかかな。
中:それ以前に、シナプス画廊っていう画廊があったり、日本だとあまりないかもしれないけどアーティストが自分たちで画廊を作ったり、スタジオを共同で借りて展示したり、シナプス画廊っていうのは自分の住んでいる所に展示していたりね。
は:フォトグラファーズギャラリーもそうですね。
中:そうですね。そういうの以外にも、自分で発表するメディアまで持っちゃうとか、あるいは新しい発表の形態に合わせて作品も変わってくるような事すらあって良いですね。あと作ったものをCD-Rに焼いて配ったら発表になると今言ったけど、それじゃあやだ、100万枚売る事を目指す方向もあるわけだよね、そうするとそんなの発表の内にはいらないのね、だからそこらへんはいろんあレベルがあっていろんな考え方がある。だから音楽か美術かではなくて、音楽の中でもいろんなレベルがあって、どの段階で自分が発表したとするか、あるいは最終的に発表せずに自分の満足できるものを作るので精一杯だっていうのも立派な態度です。
ひ:個人の態度によるという事ですか?
中:そうです。ただしその態度は個人の思想による訳で、その思想には社会状況をどう自分が見てるのかっていうのが入ってくるわけだから。社会との関係はあるし、その上でどう考えているのかっていう事がある訳ですね。だからウンモ星人み見せればいいというものが本当にある。だけど、ウンモ星人に見せれば良いというのを美術業界に見せるとか。そいういう事もあります。松澤さんの話は関係してくるよね、こういうどこに向けて発表するのかっていうのを自分で決めていく。そこで松澤さんは詩でもなくて美術の文脈で、コマーシャル画廊を通して発表しようとして、でも画廊主が変な人だったからやめたりね、いろいろ大変ですね。でもちゃんと美学校に後続車がそろっている(笑)
ひ:次の注13では循環史観について書いていて、20世紀の美術史のサイクルが3つあった、そして4つめの新大陸はデジタル環境なのではないかと述べています。例として平均率クラヴィーアが登場した為に「12の調整それぞれのための曲」という概念が成立し、それを具現しすべての調整を自らの作品で埋めたバッハが出されていて、そこに「アイコン限界フロッピー」が重ね合わされています。
中:そうそう、これを今日読んで、そうだったのかと(笑)自分で驚いた。
ひ:フロッピーのアイコンは?
中:フォルダアイコン。
ひ:中には何も入れていないんですね。そこでアイコンも既にあるもので埋める事もできますよね。
中:そうできるできる。
ひ:なぜ手描きにしたんですか?
中:ガロには書いているんだけど、そこでは本当は面白くないアイコンで名称未設定1、2、3、、、と増え続けて行くだけでも良かったんだけど、それでは面白くない。そうすると434個ではなくて800個位はいるかもしれない、そっちの方が正しい作品なんじゃないかっていう疑問があると。このときは僕はイラストレーターだったし、バカCGとかやって面白い事を期待されていてそこまで出来なかったんだけど、理論的にはそれはできて、そっちの方が面白い、面白くないんだけどそっちの方が面白いはずだ、って言う事は考えてて、でもイラストレーターだと出来ない。でそれをちゃんとやり始めるようになったのが方法以降の作品です。だから方法主義者になってからはそれでしかやらない。それ以降の課題を、面白くなくてもやろうっていってやってたのが方法主義。だからこれは方法主義になる前の作品。で、アイコン限界フロッピーはみんなから面白がられているんだけど、自分では一つ課題が残っていて、それは面白くしないと出しちゃ行けないような気がする自分はまだまだだと。そういう事です。
か:アイコン限界フロッピーの量は、アイコンが例えばK100なら黒一色じゃないですか、それで他方には複雑な色の組み合わせのアイコンがある、そしたらフロッピーに入る数は変わってくるんですか?
中:変わってくるのかも、それは実験をしないとわからない。でも全部自分で作ったアイコンだと容量食うんだけど、今言ったように既存のアイコンを使うとメモリ食わないからもっと入ると思う。今は424個です。
ひ:この図の下の方の”わかめ”の横の”恐怖のみそ汁”っていうのが面白かったです(笑)
中:良く見たね、カラーで見ると面白いよ。あった、恐怖のみそ汁、今日ふのみそ汁ね(笑)「恐怖のみそ汁の話してあげようか?」「うん、、、」「今日、ふのみそ汁」(笑)
は:職場で子供達が良く言います。
中:これハマる人多いんですよ。あとはね、「虹の七色には何故マゼンタがないのか」とかね、本質を突いたものもある。これはね、あまりみんな知らない大事な話なの。知らないですかみなさん?大事な事知らない人多いですよ、ヨハネス・イッテンとかみんな僕から見ると間違っているように思うんだけど、あの様は凄く簡単なんだけど、色の理論、波長の話あるじゃない、短い長いとか、外側が紫外線と赤外線とか。で紫と緑の間にちょっとだけシアンみたいな色があるとか、緑と赤の間にちょっと黄色の所があるとかその間に橙色があるとか。そうするとここに7色が出てくる、7色というかスペクトルが。そうするとここにマゼンタが無い。何故か!?
この中に全ての色があると思っている事自体が間違いで、単にこの表と見えている色はあんまり関係ない。でもこの図で説明しようとするからこんがらがる。ええと緑、目には桿体細胞(かんたいさいぼう)と錐体細胞(すいたいさいぼう)があって、錐体細胞はコーン、桿体細胞はロッドて呼ぶんだけど、細胞の形が円錐形の形か細長い円柱の形の差なんだけど、2種類。で桿体細胞は明暗しか見ていなくて色がない、要するに光の強さしか見ていないのね、で錐体細胞っていうのは色がわかる、色がわかるっていう話はどういう事かっていうのはこれから話すんだけど、錐体細胞は3種類ある。で3種類あってRGBの3種類。でRっていうのは赤なんだけど、その辺に反応する錐体細胞がある。でも違う所もちょっと反応はするんだよ、でも一番赤で反応する。それからG、緑。そしてB、青。でうまく2つ反応しないで1つだけ反応するっていうのは理論上でしかなくて、普通は全部ちょとずつ反応する。でもRとBには反応しなくてGにだけ反応すると理論上では緑に見える。で簡単な事を言うと、全部反応すると何色になるでしょう?白ですね。例えばさっきの波長でいうと、一カ所だけっていうのはネオンライトとか特殊・ネものね、でも太陽光線はどこの波長の光も含んでいる。そうすると白く見える。だから雑音、ノイズは色んな波長をもっているように、太陽光線にもいろんな波長が含まれていて、白く見える。ではその次。RとGに反応してBだけ反応しない光があると、そこには黄色が見えます。一つの波長が黄色のみっていうのは探すのが難しくて、それよりも白色光線から青い所を差し引いたものが奇麗な黄色になります。そして白色光線から青を引くっていうのは普通の黄色いもの、(近くにあった黄色いものを指差して)そこに黄色がありますね、あれはどういうことかっていうと、光を当てると、青い光線を吸収してしまっているって言う事なのね、だから他の光を反射しているからああいうふうに見える。白いものっていうのはどの色も反射しているから白に見える。そういう事なんです。グリーンと青紫が反応するとシアンになる。ではマゼンタは?マゼンタは赤と青が反応するとマゼンタになる、そうするとこれは現実にはたくさんあるのね、緑だけ吸収してしまうもの。
か:シアンとブルーはどう違うんですか?
中:ブルーはどちらかというと青紫です。シアンはもう少し薄い水色の様に見えます。
だから赤と青が反応して緑だけ反応しないのがマゼンタたから、さっきの波長の中で表すと、マゼンタが反応する波長っていうのはない。だからプリズムの中、虹の7色の中にマゼンタは無い。理論的でしょ。さっきの波長の話では、ピンポイントの光っていうのはあるんだけど、白色光線っていうのはそれが集まった光。でプリズムで取り出す事は出来る。で、マゼンタだけで反応する波長っていうのは無い。
か:RとBが被らないからですね。
中:そう。それが被るような色は必ずグリーンが出てくるから。だからプリズムの中にマゼンタは出てこない。
は:言われてはじめて気がつきました。
中:これみんな知らないんだよ、こういうような事を知らないで赤と緑は補色だからとかなんとかいってるけど、赤と緑は補色じゃないんだよ。とかそういう事とかね、みんな酷いんですよ。補色の話だとね。
あと色はね、立方体の方がわかりやすい。立方体がありますね、x軸y軸z軸にRGBCMY白黒を割り振っていきます。でRとBが反応するとMになります。GとBが反応するとC(シアン)、RとGが反応するとY(イエロー)。だから光の三原色、錐体の三原色がRGBなんだけど、色素の三原色はちょうどここのCMYなのね。だからRGBとRGBの関係っていうのはこの立方体の関係です。
は:なるほど、とてもわかりやすいです。
か:原点の所は何色ですか?
中:ここは黒です。で光は加法混色、光は全くないと黒になる、たくさんあると白になるという方向性です。RとBを混ぜるとMになる。でも色の方は減法混色で、基本が白で、そこからMとCを重ねるとBになるとか、MとYを重ねるとRになる。だから赤は原色じゃない、CMYが原色だからRは作れる。それは印刷やってる人ならわかるよね、赤はYとMを混色すればできる。緑もCとYで作れる。で全部のインクを足すと黒になるはずなんだけど、色素の場合は理論的なインクっていうのは無いから灰色っぽくなって真っ黒になならない。でもそれは桿体細胞にあたるインク・ェ必要になってくるという事です。となると赤の補色は緑だっていうのは嘘になります。赤の反対側はシアンですね、マゼンタの反対はグリーン、イエローの反対はブルー。だけどこの辺はみんなごっちゃです。まず最初に原色を置いてみましょうとかいって赤青黄とかやってるけどそうじゃない。マゼンタ、青、黄と置くべきか、あるいは青紫と緑と赤を置くとかそういうふうにしないといけない。だから最初の3原色を選べる人が少ない。
か:中学校ではシアン、マゼンタっていうのは無くて、全部赤、とか緑とかでした。
は:そうだね。
中:そこはね、区別しなければいけないんです。こういう事がアイコン限界フロッピーには詰まっているという事です。(笑)
か:こういう事はもっと知りたい場合はなにか参考書とかありますか?
中:ええとね、色に関してはあまり良いものは見た事が無くて、結局これ僕は自分でわかった事です。なんか色素表とかでややこしくしているものとか多いし。本当は簡単なんだけどややこしくしているものが多いんです。
は:デザインで印刷する場合はCMYKとか写真だったらRGBとか、その程度しか理解していませんでした。
中:そうですね、本当は簡単なんです。
は:恐怖のみそ汁の話ですね。
中:その隣にあったアイコンからこういう話になりました。でもその辺りにも「モニタチェックシアン100」とかありますね。このアイコンは簡単に作れます。
ひ:このやりかたは中ザワ作品では切手作品と金額シリーズと作り方が同じだと思いました。
中:そうですね、どんどん埋めて行くやりかたですね。アイコン限界フロッピーで面白くしないといけない自分に敗北を感じて金額とか切手の作品が生まれてくるようになった。
ひ:新大陸がデジタル環境と考えられていて、美術のサイクルの表を見ると一段下がるごとに新大陸になって行くんですけど、アイコン限界フロッピーは3段目の一番右側、コンセプチュアルアートの所に入って、新大陸はデジタル環境としてあるのに、作品は表現主義的でなくてコンセプチュアルだと思いました。
中:僕はそうではなくて結局美術の文脈にもっていけてない、あの表は歴史になったもの達で作られている表なんだけど、歴史にならなかったもの達もたくさんある訳で、それはその表に入っていない。本当は4番目に入るもののはずなのに、単に先駆とされてその他になってしまう。それで美術の文脈にはいらなかったんです。この頃はそういう意味で美術作品と認識していないですね。きちんと。でも美術の問題を突いているはずだという事が僕に文字を書かせているんではないでしょうか。僕は新大陸論を読んでいて、その後97年以降の活動、いろいろ発表していく作品はこの時点でだいたい書かれていたんだなとわかった。「シュトックハウゼン、ナンカロウ」で書いているような事もだいたい書かれている。あれは97年3月ですね、97年6月にギャラリーNWハウスで個展をやっているから、3月はもう肩書きを変えるぞっていうノリだったと思いますね。個展も決まっている頃です。それもあっていつまでも連載を続けて大丈夫な状態だったんだけど、ここで最終回にしようっていって書いている回ですね。
は:注9ではシュールレアリスム、コンセプチュアリズム、サイケムーヴメントを並べて、最後に「わたしはこれらを一括する用語の必要性を感じています」とあります。と述べています。
中:そうですね。
は:その前も注4でも同じような事を述べています。この部分は中ザワさんの循環史観の概念です。この言葉には抵抗がある人が多いと思うんですよ。一括する用語を用いる必要性っていうのはあるんですかね。
中:あると思います。今半田さんが言った抵抗のある人っていうのはむしろ差異化する用語の必要性を感じている人の事ですね。これとこれを同じ言葉で語るなと。統一しようとする考え方がモダニズム的な考え方なので、その表明になる訳です。なのでそれへの反発はポストモダニストからたくあさんあると思います。
は:シュールレアリスムの解釈でも、コンセプチュアリズムとミニマリズムを一括する用語の必要性を感じている。
中:コンセプチュアリズムとミニマリズムと、シュールレアリスムまで一括するっていうんだからそれは無理があるよね(笑)それはすごく反対されるよね、だけど岡本太郎が直面していたのが第二次大戦前の画壇がまさに抽象派とシュールレアリスム派の2つに分断されていて、それらがお互い交流もなくていがみ合っている。でその中の渦中にいる人から見ると抽象とシュールレアリスムは全く違うし相容れない訳なんだけど、遠くから見ると、同じような事の表裏みたいな事が同じ時代にあったんだなという感じがするじゃないですか。
は:表裏はわかるんですけどそれを一括するんですか?
中:例えば中期ルネッサンスと比べるとすごく似てきますよ。コンセプチュアリズムとミニマリズムは一緒にする人はいますね。だけどその裏側にはアプアートから流れたサイケムーヴメントがある。でオプアートがミニマリズムとシュールレアリスム、サイケを繋げている役割が会ったりします。例えば抽象絵画とシュールレアリスムは全然見た目は違うんだけど、モンドリアンは神秘主義者だったり、オカルトノリがあったりする。薔薇十字のノリもある。でむしろ薔薇十字とかオカルトノリを公言していたのはシュールレアリスムだったりもする。だから実は出所は同じだったりね。例えば魔法陣、魔法はとてもシュールレアリスム的なものですけど、魔法陣をミニマル・コンセプチュアル的な理論、数学的なものだと見る事もできますね。どっちとも取れる、逆に言うと同じ事とも言える。表と裏っていう事ではなくて、同じ事であると。
か:注4のモダニズムの原点という所では、モダニズムの説明が面白くて、これも新大陸論ですよね、ルネサンスや王政復古も。あと注11の新大陸不要論ですね「すべてやりつくされた、として終わってしまえるのも、ある意味では幸せな状況であるわけです。しかし「やりつくされた」はずがそうでなかったこととされることが、近代以降の歴史では何度も起きているわけでもあります」と。中世の世界も「生」「死」「死後」の「死後」にあてはめています。
中:簡単にいうと、「生」はイオニア自然哲学です。万物の源は水だとかね、で「死」がソクラテス。ここにはソクラテスは新のダダイストだと書いてあります(笑)で「死後」がプラトンのイデア論ですね。
は:話が飛びますが、注11にレミング現象が上げられていますが、これは自殺行為ではなくて、レミングに限って言えば、動物が移動するときについて行けなかった集団が淘汰されていくっていう説もあるそうです。
中:ネズミ?それが大多数が移動しておちこぼれが淘汰されるの?
か:でも大量に崖から落ちたりするんですよね。
中:最新の知見を知らないから教えて欲しい。映画とかでもあるよね、人が海に落ちて行くのとか。で見た後にそいういう感情になったりするよね(笑)
は:昔話でありますよね。
中:パイドパイパー?あれでも子供だけじゃない?
は:初めはネズミなんですよ、賞金が掛かっていたネズミを全部移動させていく。
中:そうかもね、にてますね。でもそれは本能じゃないですね。プリセットされているかどうかの話ですね。
は:横尾忠則は21世紀は宗教の世紀になるだろうと言っていましたね。
中:ここに真のモダニズム批判の事が書かれていますが、これは方法時代になると、話者、話者糾弾の為の話者、話者糾弾のための非話者とか出てきますが、その前哨戦です。
は:第一期に読んだ所ですね。
中:この97年の段階のこの文章で「ああハズしてるな」って思うのは、デジキャッシュの話をしている事だよね、貨幣自体がもともとデジタルで仮想現実のものだから、あらたにデジキャッシュっていうような話があったんだけど、それはデジタルならではっていう話ではないですね。単に円とユーロとドルをどの比率で持っておこうかっていうような話で、デジキャッシュの話はいらないですね。
は:注3には「コンピュータというのはテーブル機能をを最高に効率よく使用するための装置にすぎないのです」
中:これは悪文ですね(笑)それでなんでしょう?
は:続きに「その意味ではコンピュータはまさにモダニズムを最高に加速させるための装置である訳で、アンチモダンのために使用しようとするニューエイジ的な発想は見当違いとなりかねません」とあって、でも使っている人いますよね。
中:今もいる?アンチモダンとして使っている人。
は:いますね、ニューエイジっぽい感じで使う人。
中:むしろ当時のおしゃれな人はそっちの感じで使う人は多かったですよ。なんかこれでエクセルをやるとかワードをやるとかじゃなくて、単に「マックを買って何でもできよう」(笑)みたいなね。パソコンの基本的な昨日は2つある。それは古屋俊彦さん、方法の第二回目のゲストです、哲学者で美術評論もやっていて凄く面白い人です。今度ゲストで呼びたいですね。で古谷さんがいっていて良く分かったのが、コンピュータの機能は2つあって、一つは表計算、もう一つはベクター、データを入れて行って管理するっていう方向性、あとは方程式の計算をさせるっていう方向性。それがコンピュータの基本機能で、それを美術方面にローカライズさせると僕がいつも言っているビットマップとベクターの話になります。だからビットマップっていうのは表計算のビジュアル版。x軸があってy軸があってっていうのは表計算ですね。でベクターっていうのは方程式をいれれば円や図形ができるというようなことです。でさっきのテーブル機能を最高に効率よく使用するための装置にすぎないというこの悪文、これはコンピューターの基本機能として表計算があると言い換えられますね、テーブルっていうのは表の事です。コンピュータは単に計算、それが凄く速くなってくるとどういう事になってくるかっていうと一つが表計算、もう一つが方程式という事になります。あとはその折衷、表計算に方程式機能が組み込まれるとより便利な表計算が出来るし、あとは連立方程式とかっていうことも作れるし。連立方程式が膨大になると表計算とも言える訳です。両極はただの表計算か一個の方程式になる。
この新大陸論はその後の文章に派生していくものが注の中にいっぱいありますね。
は:最後に「未来派航空絵画宣言」が出てきますね。高速で飛行機が飛び回る時代ならではのリアリティを絵画は表現しなければならないとしたわけですね。他にも航空舞踊とかいろいろありますね。
中:航空彫刻宣言とかあります。
は:未来派面白い!
中:豊島さんに似ていますね(笑)宣言のタイトルを考える方が先だよね、内容よりも。このタイトルを宣言しなきゃっていって内容考えるみたいな(笑)素晴らしいです。
は:名付けるのが先ですね。
か:ここにある図の「フラクタル的ポリフォニー・習作」とは何ですか?
は:今は題が違います。
中:前本彰子さんとの二人展でひっぱりだしてきたもので、これは動画なんだけど、6コマでできていて、みるととても6コマとは思えないようなものになっています。一日一品でありますよ。(*1)
は:世界没落体験ですね。
中:そういう症状があるんです。それは西洋画人列伝のムンクの所を見て下さい。余談だけどムンクの「叫び」は世界没落体験そのものだと思うんだけど、そういう風に書いてある文献は僕の知る限りない。僕は大学図書館とか調べられないから論文レベルでは調べてないけど、書店で買えるものでムンクの叫びを世界没落体験と結びつけて論じているものは見た事ないです。しかし僕は世界没落体験だと確信している。
は:だいたい書いてあるのは声を聴いてああゆう状態になってて、この人自身が叫んでいるのではありませんっていう説明ですね。
か:どういう症状なんですか?
中:精神分裂病者に現れる症状で、急激な戦慄をともなって「嗚呼!世界が終わってしまう!」「地球最後の日が今来る!」っていう状態です。
は:たまに韓国で何月何日に世界が終わるっていうので教祖と信者で集まってテレビで放映してて、結局なんにもおこらなくて生卵を投げられるっていう事が起っているらしいです。
中:生卵なんだ(笑)まあそういう事はあると思います。いつの時代にもあって、それをたまたま力の無い人が精神病者として勝手になってるように見られる場合もあれば、説得力を持った教祖級の人がやると別の事になったりね、モルモン教がそういう感じで出来ているんじゃなかったっけ、モルモン教の教祖が世界没落体験みたいな人だったよたしか。
か:パナウェーブもそんな感じでした。何とか星っていうのがあってそれによって環境破壊や温暖化も起っている、それはNASAは知っているけど公表していない、それであと何十年かするともっと大変な事になるけど、今は金星人によって今は大丈夫だ、だけど危機的な状況になっているから手伝って下さいという感じでホームページに書いてありました。
中:1500年にも世界が終わる事になってた、それはキリスト教世界。終末が来てキリストが再びきて君臨する、それがノストラダムスの大予言に繋がってくるんだけど、それが終わるのが1500年だと信じられていて、それでそれがルネサンスの一時期失墜する時期。だからボッティチェリが自分の絵を焼いて中世的な怪しい絵を書いたりしている。その年にデューラーは正面で自画像を書いている。その時期は神様しか正面で描かない事になっていた。
は:有名な絵ですね。
中:それも西洋画人列伝に載ってます。
は:この前朝ゴミ出しにいったら自分の所が回収されてて、見たら近くに回収車がいたからそっちに捨てようと思って、近くのおばさんといっしょに歩いていたらそのおばさんが「実は私キリスト今日をやっていまして、イエス・キリストは黄金のピラミッドに乗って地球に向かっておられます。どう思いますか?」ときかれて、どうしよかと思いました。逃げました。
中:結局1999年7月にも何も起らなかった。でこの絵は世界没落体験と名付けられて発表しなかったものです。実はマルチメ日記には発表しているんですけど、美術の文脈では発表しなかったです。文字座標型絵画を出した時にこのアニメーションを持って行ったんですけど、これを出すとおかしいなと思って外してしまって、それからは色を使わない個展がきちんとできました。この絵はRGBCMYを使っています。パラパラマンガの要領です。その後は世界没落体験っていうような名前を付ける事もしなくなりました。っていうような話を前本彰子さんとの二人展の時に話して、とても反応してくれたのがMAYAさんです。
結局僕がこの新大陸論を読んだ感想としては、デジタルは新大陸としてあると思って書いたけど逆に言うとここから10年たった今もきちんとした文脈として起きていないですね、でもビジネスの話ではすっかりそれなしでは考えられない状態になっています。アメリカのベルトコンベア式大量生産大量消費式システムも戦前くらいから始まって戦後バーっと強くなった訳だけど、ウォーホルがきちんとやるまでは美術の方には似たようなやりかたは出てきてなかったけど、逆にいうとデジタルをきちんとやる美術表現はまだないという言い方も出来るかもしれない。dからまだこの新大陸論の様にはなってないけど、そのうちこの通りになるかもしれない。だからアイコン限界フロッピーは当たっているんじゃないかっていう事になるとそう思いたいけどハズしてる状態ですね。本当はちがうのかもね、美術という語にこだわっているからそう見えるだけで他の表現形式、それこそニコニコ動画が表現としてどういう状態なんでしょうか。
か:たまにありますね、どれくらい長い動画がアップできるのかとか。真っ黒で4日とかかかるものとかあります。ただ僕が思うのは今は小さな盛り上がりでしかない感じですね。
中:大きな流れがある状態ではないと、でもニコニコ動画も次とかその次とかになるとどれかが上手くいくかもね。
か:ニコニコの盛り上がりは日グラとかの盛り上がりにも似てると思っていて、それ自体はその内消えて行くかもしれないけどその中で新しいものが出てきたりするかもしれないと思います。
中:日グラもそのままのフォーマットでは無理だったんだよね、だからそこに出品してた人達も美術の枠の中に入って行ったりだとかで、日グラを無かった事にしても成り立つようなものに一旦なってしまった。だから今のデジタル的なものもそうなってしまうかもしれないし、逆にクラシックをしらないロックスターがいるじゃないですか、そしてそれで良い訳じゃないですか、だからそういうジャンルが出来るかもしれない。
か:youtubeやニコニコ動画では、美術の文脈ではないから良いというものもあって、素人がその感覚でやっているのが面白いとか、アートアートしてしまうとつまらなくなるとかはありますね。
は:オタクの人達が村上隆が嫌いなのと関係してきますかね。
中:コミケの文脈は凄いと思うけどね。
は:それで生活している知り合いもいます。
中:それに比べると美術は、、、とも思うけど制度の上に乗っているのは美術なんだよね。
か:結局アンダーグラウンドが60年代から発展していったような過渡期なんですかね。
中:何ともいえないかな、状況があるしね。ボッティチェリなんか全然名画なんかなくて無名の画家だったんだけどダ・ヴィンチが出てきてボッティチェリ古いってなってから全然何世紀も忘れ去られてきてやっとラファエル前派が19世紀に出てきてやっとラファエルの前、すなわちボッティチェリが出てきて名画として復活した。それまではヘタな絵描きだった。それはボッティチェリが変わったんじゃなくてこっちが変わったんだよね。そうすると身も蓋も無い話になっていくかな(笑)せっかく新大陸とか言ってたのに。
注Kの日本という田舎っていうのはその後日本美術史を書くのを予言していますね。では休憩しましょうか、次はインタビューですね。
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では始めましょうか。
こ:中ザワヒデキインタビュー、一九九八年六月二八日アロアロインターナショナルにて、聞き手、千葉成夫です。
中:アロアロは経堂にありました。
こ:中ザワさんの生い立ちや学生時代の事について多く語られています。
中:僕はこれは読んでみて失敗なと思っていたんだけど、色んな人からこれを読んでわかったことが多くあったと言われて、まあいいのかなという感じです。
か:恥ずかしい事もありますね。
中:こんなにべらべら話すんじゃなかったなと。
は:栄光学園に通っていたと書かれていますが、そういえば栄光学園の看板に栄光ゼミナールとは関係ありませんという広告がありました。
中:そうなんだ、ぜんぜん知らない。
こ:中ザワさんの大学進学時には、美大に入りたいという思いはあったが、三つの理由でいかなったと。
中:はいろうと思っていたと書いてありますが、あんまり思ってなかったですね(笑)だけど視野には入っていたかな、自分の行くべき方向性として。
か:美術系という選択肢はあったけどか美大という選択肢はなかったという事ですか?
中:いやいや、美大かという選択肢じゃなくて、単に美術は学ぶものではないだろうっていうのが無かったのと、画家を想像できないっていうのとですね。でも成ってしまいましたね画家に(笑)。ついに油絵の具で絵を書いてしまいました。どうするんだという感じです。
は:腱鞘炎にまでなってしまいましたね。
中:そうなのよ、変な筋が出てきてしまって痛くて、腱鞘炎でもないかもしれない。リウマチとかあるのかな?
は:どうでしょう、リウマチはあんまり関係ないと思います。肩こりが酷くなる人もいます。
中:ご心配頂きありがとうございます。これは医者になる理由が書いていないですね。
こ:書いてありました、#350ですね、最も楽で時間が作れる科だったと言う事ですね。
は:やっぱり美術に関わるには精神科ですかね。
中:そうだよ、齋藤環だね。
は:豊島重之もそうですね。
中:石井香絵さんの論文でもこの辺を少し引っ張っています。精神科ではなくて眼科なんだという。それを序文で中ザワは絵を無意味に凝視しているっていうのと繋げて書いてくれています。終わりの方には「中ザワの美術は実用の逆を行く美術である」と書かれていますね、「中ザワが美術家であるかぎり無意味な凝視は続くだろう」という所ですね、世界に意味があると思って世界を凝視するのが精神科的だと思うのね、それに対して世界を無意味に見ているっていう所が関係ありますね。ここは今見て思うのは、千葉さんに「でも眼の構造や成り立ちについてきちんと押さえたんですね」っていう所であるけれど答えで「実体験に対していかに視覚が当てにならないか、そして視覚に対する人々の反応が全然違うという事もよくわかりました」と言っているけでど、これをさらに繋げようとするとどうですか?文献研究受講生としては?ようするに視覚がいかに当てにならないか、だから色は使わずに記号の方を信用して使うという事で文字座標絵画が生まれているという理由を本当は言いたかったんだけど、そこは深入りせずにこういう答えになりましたという事です。
は:データという事ですか?
中:データというか、例えば赤をR100だとかこれは真の赤だと認識させる事はできるかもしれないけど、漢字で赤と書いてあれば誰がみても漢字が読める人であれば赤なんだよね、赤緑色盲の人にとっても赤、漢字で赤ならね、だから文字を使う。文字の方が完璧な色彩だからね。でもそれは詭弁です。でもいかに整理が当てにならないかという言い分ですね。色を信じたりすると、例えば灰色絵画を見た人は中ザワさんが指定した色が実際にプリントした時に思った色と違ったらどうるすんですかっていう質問があるんですが、それは生理を信じているとそう・ネってしまうんだけど、僕は生理を信じていないから思った色っていうのは無い。思ったのはCMYなのね、そういう事です。
は:油絵の作品も色の選び方を赤だったら「ピュアレッド」っていう方を選んだっていうのが凄いなと思いました。
中:ありがとう、正しい感想ですね(笑)他に「ブライトレッド」っていうのがあって、そっちがいいかなとカタログを見て思ったんだけど、名前でピュアレッドを選びました。
か:かっこいい名前の絵の具は使いたくなりますよね。
中:あるよね、ターコイズブルーとか。
は:ターコイズブルーは良い色ですよ。私使っていました。
中:名前で選んだの?
は:いえ、色を見て使っていました。
か:僕も使っていました。
中:そうかそうか。
こ:最初にもどるのですが、小学生の時から絵を描いていたと。絵を描くのは好きでしたか?
中:そうですね、ここには描いてないし喋ったかどうかも忘れたけど、母親が内職でタイプライターの様なものを打っていて、それで父親が職場行ってて母親がタイプライター打っていた。僕は一人遊びをしなければいけないわけで、でもその時に母親にまとわりついてうるさかったらしい。覚えてないけど。で母親が紙と鉛筆を持ってきて「ここに自分の絵を描いて持ってこい」とかいってタイプライターに戻ってて、僕が「描いたよ」と言って絵を持ってきたら、まだ本当にはじめて描いたような絵で1歳とかそこらだったけど、一応顔になっていた。で母親がびっくりして、事あるごと紙と鉛筆を持ってきて絵を描かせていた。タイプライターに戻れるし、僕は一人でなんかやってる。って言う事があったらしい。
ここに書いてなかったけど、子供らしくて元気がよいという事を言われ始めて、途中から大人の気に入る絵がわかってきたっていうのははっきり言わなかったですけど、要するにヘタウマをちゃんとやってたっていう事ですよ。ヘタウマの作風でわざわざ誇張してヘタクソでも元気な方がいいんだってかんじで描いてたら「元気があてよろしい」とかいわれたり、実際の綱引きもうーんと人を倒してかくと写実的にはへたなんだけど「元気があってよろしい」っていうふうになるのね、だから僕は最初からヘタうまだったんですね。
こ:大学時代は学部の勉強をやりながら絵を描いていたんですね。
中:そうですね、でも医学部の勉強は最後の年しかしなかったですね。最後と解剖実習の年ですね、解剖実習の時に描いたのが『朝顔が咲く時間』ですね。
こ:#349に、画家で食べていくっていうのが想像できなくて、商業美術を知らなかったと言っていますが。
中:うん。グラフィック展のおかげで知ったけどね。イラストレーションというジャンルってなんだ?って言う所で商業美術を知りました。これはこの前のアスペクトの話では、都築さんは最初から知ってたんだよね、和田誠のファンだったりね。で僕はそこでは本当にピカソとかマチスとかしか知らなくて、そこの延長としてグラフィック展の作品を直感したんだよね。
こ:近代美術史テキストで言っているのもそういう事ですね。
は:アールヴィヴァンの話がありますが懐かしいですね。
中:そうですね。まあでもナディフですよ。今もあります。組織的にはね。
こ:アールヴィヴァンからですか?
中:いえ、やっている会社がニューワード西武という所で、渋谷のお店があったりして、アールヴィヴァンが無くなってから自分の店を作ろうって言う所でナディフが出来ました。池袋西武の最上階にありました。
は:一番新しいものがある所っていう感じでした。
中:音楽もそうです。現代音楽とかも、それで詳しそうな人が店員をしていたり、この前FMで近藤譲が話していたあれはないですか?とか聞くと「ああ、フェラーリのでしょ、あれはまだないんですよ」とか答えてくれるような人ね。
インターンっていう言葉がいきなりでてきますけど、インターンっていう言葉がなくなって研修医になったんですね。でも同じ意味でインターンと言ったりしていました。
こ:その後に近代美術史テキストの話になります。
は:ここでは話していませんがフォンタナの頁がやりたくて書いたと他に書いていましたね。
中:そうです。石井さんの本にかいてあります、あれは面白い所ですね。
は:なにも知らずに読んで、きちんと書いてあってなるほど〜と読めるのですが、フォンタナなのか!と。
中:いろんな理由があって、そのうちの一つですね。
こ:ここには「純粋美術に対する未練を断ち切る、忘れる為に書くつもりでした」と書いてあって、純粋美術を封印するためにって言ったり、その為に黒い装丁にした、とか説明したりするんですが、ここではしていないですね。あとここでいう絵っていうのは商業美術と純粋美術を分けていません。
こ:医者から商業美術に移った時に、「絵のほうでやり残した事がある。」と言っていますが。
中:どういう事でしょうね、そでまでに描いていた絵で完成だとは思っていないですからね、で絵の問題を自分で追求しなければいけなかったりして、でも解決したとは全然思っていない。問題はあきらかになった所まではいったのにそれをやらないで医者になってそこに問題があった事も忘れてしまう、やり残すっていうのは自分に対して親切ではないなと言う事ですね、医者のほうは問題感じなかったですね、自分がやらなくても他の人ができるだろうと思いました。美術の方はこれは自分がやらなくてはいけないだろうっていうのは感じていました。
は:図録にあるアクリル画の作品は名古屋で展示していましたね。
中:そうですね、あれはきちんと告知もできないままやってしまった展覧会で、いまはもう出来ないですね。文化村でやったやつは全部売れ残りだもん。寺門さん蔵になって阪神大震災で滅失してしまった作品もあります。でも地震は仕方が無いらしいです。
こ:#354の初めには、ギンブラートの前の時期では「満足のいく作品をかならずしも発表出来たわけではない状態で、とにかく、流されながら続くっていうスタイルがずっと続くんです」
中:僕はバカCGを作ってから2年位は満足のいく作品は作れましたがその後はスランプでしたね、だからイラストレーション誌の連載とかは僕は精神的には最悪の状態で書いたものなんだけど、そこに乗っているバカビデオドラッグとかは素晴らしいよね(笑)そういうものもある。その時代のものを後で見てすてたもんじゃないなというのもちょっとあります。だけどその頃は最悪でしたね、93年の後半から94、5年は自分で何をしてたのかと自分でも思います。でもその頃にアイコン限界フロッピーとかちゃんと作っています。でもパロディものはある種自分の中でどうなんだろうっていうのはあります、バカビデオドラッグは自分でも面白いとおもうんですが、それが自分の代表作かって思った時に、ビデオドラッグあってのバカビデオドラッグだし、パロディじゃなくて自分に本当に表現したいものがあるのかっていう問いに対しては弱いよね。それに対して「世の中シミュレーショニズムだし、ポストモダンだし、パロディーでいいよ」っていう理論もあるわけで、ずっとそっちをとってたつもりだったんだけど、そうなってくると自分の代表作はこれか?ってなった時に、これはビデオドラッグ知ってる人なら受けるけど知らない人には受けないみたいな事もあるし、良い訳しながらじゃないと自分の作品をだせないっていうのは違うかなと思ったりね。であるときにそういう良い訳をしないで出せる作品は無いなと気付いて。で良い訳を出さずに出して、しかも嫌われてもね、誰からも無視されても自分はこの作品を作ったといえるものは無いという状態を打開したのが『文字座標型絵画』ですね。だからそこで肩書きも変えています。それがこの「満足の〜」という文章には込められています。バカビデオドラッグだって「今度CD-ROMつくるんだけどその中のデータで面白いのない?」っていわれて「じゃあ」っていう感じで出したものもある訳だし。この時にはこれは面白い。でも本当にそれがやりたいのかっていうと必ずしもそうではないっていうのがだんだん増えてきたんですね。そもそも商業美術っていうのはそういうものですね、自分が作りたいものではなくて他人が作りたいものを作るんだから。
か:パロディ・贋作展の時もそういう感じでしたか?
中:いえ、その時にはそういう期銛はありません。あれは全体が作品でしたから。今は一日一品でしか見れないようなただの雑誌のただのカットのようなイラストがその頃は多かったですから。依頼のイラストで「大阪の女のイメージで描いて下さい」とか言われてその時は面白くて描きますけど、自分が大阪の女を描きたくて描いているアーティストでは無い訳ですよ。買い物している主婦シリーズはありますけど、自分が選んだモチーフでは無い訳です。
は:私が見たものは全然似ていないのがありました。
中:僕テレビ見ないので全然わからないのですが、似ていないものあるらしいです。文章を読んでそのイメージで書くんだけど、それをバイトの
人に見てもらって、「もっと眼が大きいです」とか言ってもらって直したり。アサヒパソコンの連載ではトムとジェリーを描いて、こんな感じかな?とバイトの子に見せたら「中ザワさん、トムとジェリーは人間じゃないんです!」と言われたりね。でも結構一発目で良い線行ってる事が結構ありましたよ。
は:良い線っていう時点でだめじゃないですか!ちゃんと見て下さいよ。
中:バイト判断だから大丈夫です。
は:勘で描いていたんですね。実際に見ようとは思わなかったんですか?
中:実際のものがあっても見ないんですね。実際の資料とかももらったのあるんですけど、結局最後は見ながらだと描けない。そういう感じで描いたものが多いですね。ガロの松沢宥は似てたりしますね。
は:モンタージュが似ていなくて似顔絵を描かせた方が似ていると言う事があります。
中:そういう事はあると思いますよ。
こ:再現美術っていう所で、再現しようとすればする程遠ざかると言っていますが。
中:ありますね、でも今の文脈でいうと再現しようとすると似てくる、でもコンセプトは遠ざかるんですね。コンセプトの話だと遠くなるんです。前衛ははじめてやって驚かせるっていうのは結構肝心で、僕が再現した中西夏之の早稲田の赤い便器はさ、あれは舞台が終わって、結局舞台芸術中西夏之って書いてあったけど結局現れなかった。っていってトイレに行ったら赤かったっていう驚きがありますよね、あれを「今から中西夏之の早稲田の赤い便器をやります」っていってやっても似るはずがないよね。と言う意味で、再現すればしようとするほど遠ざかるって言いました。#355に図録がありますね。マラリアアートショーです。これは場所の名前でありイベントの名前です。「2月1日際」っていうもので、「中村と村上」展っていうのがいくつか行われて、そのなかでやったんですけど、小沢剛は顔に洗濯バサミをいっぱい付けて痛かったらしくそういう顔をしています。僕はそこで赤い便器ですね、でそこで配ったビラで僕がはじめて再現芸術っていう言葉を使いました。
は:そこがはじめてだったんですね。
中:そうです。そのビラはあんまり良く出来たものではないんです、悪文で書かれていたりするんですけど、その中ではじめて「再現芸術集団スモールヴィレッッジセンター」と書いています。
は:そうだったんですね。中ザワさんは「初」という事が多いですね、フロッピーマガジンもそうですね。
中:そうです。
は:この前現代美術館で友人に言われました。新井さんです。
中:この前雑誌に載せていただきました。それで僕は驚いて、宣言文とか書いたんだけど、それも載せて頂いたんですが、それはジャパンアートトゥデイに入っていたらしく、貴重だなと思ったりしました。初っていうのは好きでやっていて、バカCGとかね、それが最終的に凝縮したのがビットマップ3Dデジタルネンドなんですよ、なのにあんまりわかられていないっていう所から、「世界初だけではだめなんだ」っていうのが始まりました。油絵描きだしたりね、そこまで戻るのかって感じですけど(笑)
こ:村上隆がでてきますが「これは重要です」っていうのは?
中:何もかもです。当時よく言っていました、村上さんはとても面白い人で、声も大きいし「この話はとても重要な話です!」ていう感じで、ごはん屋さんとかいっても「これはおいしいです!」って言ったりね。なんかね、うれしそうな顔で肯定するっていうっていうのは、池内さんと西原みんと村上隆の3人ですね(笑)
こ:村上隆は当時中心的に動いていたんですか?
中:そうですね、アメリカの抽象表現主義は結局ポロックじゃないですか、日本の東京ポップは村上さんですね。日本の美術は西高東低っていって関西ニューウェーブのほうが面白かったって言われていたんだけど、東京でも村上隆がいるって感じで、そのうちに村上さんは椹木野衣を取り込むような感じになっていた。
は:ここには「僕の場合は早くスパートをかけてしまったようです」っていうふうに書いてあるんですが。
中:僕のスパートの近代美術史テキストが89年で、その次に大ボケツ展をやって、その次にバカCGをやってから「デザインの現場」で「バカCGのススメ」を書くまでですね。それは一人でやった。一人でこれが絶対に正しいんだ、というふうにやったものです。でそのあとに村上さんたちがグループで出てきた。だからここにはスパートが早かったと書いています。スパートをかけた結果が、ぼくはイラストの仕事をして忙しくなるっていう副産物を産んでしまった。だからシミュレーショニズム、としての反芸術、そして非芸術、そして非芸術の最たるものとしてのイラストレーションですね、若い人たちにはわかりにくいかもしれないけど、当時一番美術から遠いのがイラスレーションだった。だから反芸術としてのイラストレーションっていうのを一人で考えてイラストレーションを描いた。そしたらイラストレーションの仕事が本当に来出した。それ忙しくなってたら、理論はそっちのけになってしまった。っていう所で村上隆が盛り上がっているぞ!っていうふうになってきた。だからそのスパートの副産物はイラストレーターになることだったのね、で望んでいたことなんだけど、それは違うのかもしれないっていうふうに気が付いた。それが遅れた。本当は美術が大事だったんだっていう事です。でそれが遅れたっていうのがスパートが早かったっていう所に繋がるのかな。#p356の下のほうに「政治的に美術家として動くときにどういうビジュアルがイラストとして有効か」と書いてありますが、この場合のイラストは説明画っていう意味ね、でその前の質問はギャラリーNWハウスでの個展は、方法論がで確立したから美術家としての時期が始まったのか?っていう確認だったんだけど、ぼくはそうではないっていうことの説明ですね。むしろ政治的に美術家して動くっていう事ね。説明すると、方法論が確率したから美術になったのではなくて、単に美術に行くことを目的とするとこういう方法論ができたっていうことでしかないということです。先に方法論じゃなくて、目的が先。目的は政治的に美術家として動くという事。政治的に美術家として名乗るときに、自分が美術家であるというときに整合性がある作品はどういうものであるべきかというときに方法論として文字座標絵画ができた。先に文字座標絵画が発明できたからじゃあイラストレーターから美術家になったわけではなくて、先にイラストレータになったのは失敗だった、美術家としてこれからやらねばというのが先。
それは要するにどういったらいいだろう、イラストレーションが説明画だっていうのは、先に文章があってそれに合うビジュアルだっていうのがあるわけですよ。文章が本体でその説明としてのビジュアル。これがイラストレーションね。でこの場合は文章に相当するのは、中ザワはイラストレーターではなく美術家だっていうことね、でそれに付くビジュアルはどういうのがいいのか、っていう事ね。で本体は中ザワヒデキは美術家だっていう事で、それに付随するビジュアルを考えたのね。これに似た考え方がトム・ウルフの現代美術コテンパン、現代はpainted words、描かれた語、あれは当時ジャスパー・ジョーンズやステラ、ドナルド・ジャッドとかがイラストレーターであるっていってこき下ろしている文章なのね。評論家の言葉が本文で、それをイラストレーターがビジュアル化したものが「旗」であったりシェイプドキャンパスであったありする。ということで本体は評論家でビジュアルはイラストレーションにすぎないっていう言い方なのね、それと同じ意味でイラストと言っています。なので政治的に美術家として動く、それに付けたビジュアルを作ったのね。だから先の質問、方法論が確率したか美術家になったのか?っていう事ですが、それは違う。美術家に転向するのが先で、それに見合ったビジュアルを作ったに過ぎない。でそのあとには具体的にデジタルネンドやバカCG見え方は違うけど作り方は同じだと言ったりしていますね。
こ:中ザワさんは2項対立をさまざまな所で適用していて、それをコンピューター・グラフィックに適用させてできたのがデジタルネンドでもありますね。
中:そう、でも2項対立の話をすると総スカンになったりします。
か:小学生のころから考えていたと言っていますが(笑)
中:なんか書いてありますね、ここではきちんと説明できていないとおもうのでここで話しますが、絵の具、物質との戯れっていうような事と、もう一つは形をどうやって抑えるか、っていう両方が絵の中にはある。そこで僕は物質の方だなって思ったのが小学生の頃だったんですね。で物質っていうのはビットマップの方に当てはまって、形態の方がオブジェクト図形方式の方に当てはまります。そういう説明を省略してしゃべってしまって、そのまま掲載されています。
は:小学生の頃からなんですね。
中:そうなんです、水彩絵の具とかパレット上じゃなくて紙の上で混ぜてはいけないっていうじゃないですか、一度塗った上から塗らないとか。油は違うけど。でそこを強引に塗って汚くなったりするのが好きだった。でそういう事をやって褒められたりした。
は:小学生に絵を教えていた時に、男の子って絵の具をパレット上でひたすら混ぜてたりするんですよ。あれは物質と戯れていたわけですね。すごい変な色ができて、この後そうするんだろうと見ていたら、そのまま洗い流していた(笑)
中:素晴らしい。汚い色になるよねだんだん。
は:そうです、次の色次の色とだんだん。
中:この文章では「存在理由」っていう言葉がいっぱいでてきますが、僕は存在させるっていう意味で、そういう言葉ってあるんですかね?っていう質問をしたんですが、千葉さんの答えは「存在してしまう理由でしょうね」といった感じで、僕の聞きたいこととは離れてしまったんだけど、僕が言いたかったのは、存在してしまうっていう事はあんまり思っていなくて、僕は不要なものは淘汰あれる世の中だと思っているから。それは資本主義のビジネスの中でもまれたからです。キッズボックスとか、受け入れられれば残るけど簡単に淘汰されるから。自分が面白と思っていてもね。だから存在してしまうなんて生易しいものではない。世の中はね。それ以前に僕の潔癖性的な考え方で、不要なものはなくていいんじゃないか、例えば天才とか天才性とかについて、青臭い考え方だったりすると、中学生の頃は僕はそういう考え方だったんだけど、とても優れた芸術家がいて自分が凡人だとするならば、自分はいる必要はないんじゃないか、天才がいるなら僕はいる必要がないんじゃないか、でもそれに対していや違うと、全員価値があるんだっていう考え方は弱者の論理なんじゃないか、民主主義の今はそういう事が言われているけど、民主主義自体弱者の論理なんじゃないか。と思っていた。そうすると存在していいのは例えば天才の作品はいいとして自分の作品はいいのか、と思っていた。何かが新しいとか何かがあって何かの天啓をうまく掴み取ってるとかいろいろあるけど、何かで存在しているもの以外は無い方がいいんじゃないかっていう考え方を僕はもともと持ってるので、なので存在理由っていう言葉を何回も言っています。その存在も存在させる理由とか、存在させてもいい理由、それを許してもいい理由です。自分に対して厳しいつもりなので、「これもあってもいんじゃない」っていうものは「なくてもいいんじゃない」っていうことは「無い方がいいんじゃない」っていう風になる。「これはなければいけないんだ」っていうものだけでも世の中には多すぎるのかもしれないのに。だから「これはなくてはいけないんだ」っていう所まで持っていかないと作品は作ってはいけないんじゃないかと基本として僕は考えていた人間だったんです。だから最後に「『存在』っていう言葉より『存在させる』っていうことまで含めた、もっと適当な言葉はあるでしょうか」と僕としては言っているのに、千葉さんは「存在してしまう理由でしょうね」という感じで僕としてはえ〜っていう感じでした。
は:#p361に、「今は音響に興味を持っていて」と言っていて、理由にビットマップとオブジェクトが逆だと言っています。その後音響に関しては何か作ったりしましたか?
中:いえ、音響に関しては特許も含め考えたんですが、やめました。
か:どういうものだったんですか?
中:シンセシスとサンプリングですね、2項対立的に言うと。シンセシスは正弦波の合成、サンプリングはスキャンですね。サウンドエディットっていうソフトで扱うんですが。。。
ひ:シンセシスは機械そのものから生成するもので、サンプリングは入れ物だけあって、一度何か音を取り込まないと、何も音がでません。
中:そう、その通りなんだけど、サンプリングから音を作るっていう事はできるよね?
ひ:どういうことですか?
中:サンプリングはイメージ的にはデジカメだよね、取り込む。スキャンも取り込むわけだけど、全部ドット、ピクセルがあるわけだよね、だからピクセルがあるのがサンプリング。とすると、ピクセルでペイントもできる、グラフィックの場合は。同じように音楽の方もサンプリングのやり方でペインティングができるはずなのね、でもそれがないから発明しようかなと思った。シンセシスの場合は方程式で正弦波をかさねていけば理論的にはどんな音でも作れる。でも理論であって、円の方方程式のようなものだよね、シンセシスっていうのは。プログラムを書けばいい。そっちはベクターツールにすごく似てて、サンプリングの場合は音を波形にして取り込むんだよね、で波形をサウンドエディットっていうソフトだと波形が出る。その波形を拡大したりある関数をかけたりオクターブ下げたりすることができる。僕のバカCGの音は全部サウンドエディットで作ってるんだけど、その波形が見えてるんだよね、でマウスで波形を描いてもいいはずなのね、でそういうソフトがないのか?って聞いたけどあるとは聞いたけど僕は見たことがない。だとしたら波形を作る、サンプリングをしないでサンプリングソフトから波形を描く事が出来る。だからそこを整備すれば特許アイディアなんじゃないかと思っていた。
ひ:できますね。メタシンセっていうソフトがあって、波形を描けるソフトもあります。
中:元音から描くものですね。正弦波を取り込むとおの音がでる。あとは拡大縮小みたいに操作するっていうのは僕も今までやってて、取り込むんじゃなくて、最初からビジュアルで描いてをれをならすっていう事もできるとおもうんだよね。
ひ:なにもない座標のにポチっととすとブーってなる感じですか?それで時間軸もあるという。
中:どういうふうにするか具体的にはよくわからないけど。
ひ:3Dビットマップのようにすればできるかもしれないです。
中:マウスでいきなり音を生成する。「音響はビットマップとオブジェクトは逆」って書いてありますけど、絵はビットマップで絵を描くことは簡単なんですよ。音はそのサンプリングソフトで音を描くことはできない、そこのところで逆なイメージを抱いていたんですね。
ひ:ビットマップ空間に元色があるように、元の音があるとできるかもしれないです。
中:そうだよね、でもそれでいんだ、正弦波のパレットを持っていればいいんだ。でそのパレットで高さとか大きさとか含んでいて、それを置いていくっていうふうにすればできそうですね。「次のアイディア」っていうのはわかりませんねここでは。
は:ファックス音で何かやるっていうのがありましたね。
ひ:電話を発明した時には筒にロープを巻きつけて筒から筒に絵が移動していく様子を音が移動する説明として使ったらしいんですけど、そういう感じですか。
は:文章のアイディアですね。
中:そうだ、文章、ワープロの特許です。「五千文字」でやりましたね。
か:ワードはドロー、一次元でアルファベットを書くのに適している。
中:そう。で日本語原稿用紙はもともと座標系なんだと。ビットマップで、五言絶句とかでは横から読んでも意味が通じるものがある。我々も縦書きと横書きが混在しているデザインをやりがちで、それがワードだとやりにくい。でもDTPソフトを使わなくても最初から原稿用紙みたいなソフトウェアがあればできるのよ簡単に。でもアルファベットはそれぞれ大きさが違うから原稿用紙には向いていない、日本語はすべて正方形だからできるのよ。原稿用紙テキストエディットっていうのがあっていいはず。でもないから特許出願したけどそのまま終わりになっています。それでこの前思い出したんだけど、そのソフト商品名まで考えていて、その名も「縦横無尽」
一同 笑
か:淘汰されてしまったわけですね。
中:そう、だから存在してしまうのではなくて、存在できなかったものなのね。
ちなみにこれをまとめてくれた吉井花英さんという人がインタビューと校正までしてくれています。載っていないですね。あ、注の前にありました。で吉井さんは石井香絵さんの先輩です。脳波ドローイングの時に連絡があって、そこで石井さんを紹介してその時に石井さんは「10年前になんか私と同じようなことをやっているような方がいると聞いていたのですがあなたでしたか」っていう感じで話していました。そして石井さんは論文にこのインタビューを引用したりっていう事がありました。
はこの季刊雑誌「芸術評論」のTSA研究所の卒業生によくあったありします。
中:「芸術評論」はこの号でたしか最後くらいだったような気がします。ここにある「美術批評・山手線事件、そして大阪ミキサー計画」っていうのは千葉先生司会で、目黒区美術館で中西夏之さんと小沢さんと僕と韓国の美術評論家の方とパネルディスカッションしたんですが、そこでは僕がフロッピーカメラでとった銀ブラートの映像を中西さんに見せながら話して、なかなか貴重なディスカッションでした。銀ブラートは一日にいろんな事が起きていて、それをたくさん量があって、中西さんが「さっきから同じこと聞きますけど、これは本当に一日に起こったことなんですか?」っていって、もっとあるからいろいろ見せていたらまた「これは本当に、、、」って聞いて小沢さんが答えたりしていました。
もうこんな時間ですね、それでは今日はこの辺で。
(*1)http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/ippin/archives/cat_50093686.html ここの一番上の作品。
20101031 文責:平間貴大