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 中ザワヒデ
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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

第二期十回 

二〇〇八年七月三十日

文献
「最終芸術の虚偽と真実―あるいは、松澤宥の甘えと寛容―」『美術手帖』2002年2月号 p.134-139, p#.280-287
「美術家、松澤宥は生きている」『あいだ』133号 p.11-16, pp.288-293

最終芸術の虚偽と真実―あるいは、松澤宥の甘えと寛容―
|情念と観念ー経歴の外観
|美術(家)である理由ー経歴の矛盾
|スピリチュアリズム?ー粉飾の虚偽
|カタストロフィー・アートー変奏の甘え

美術家、松澤宥は生きている

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中:今日は第十回、7月30日ですね、階藤さんが少し遅れてくるのかな。先週は光芸術論でしたね。

は:ヒロヤマガタは先週の論の内容とは違いますか?

中:この光を見よっていうのとはちがいますね。新大陸論のなかでは、95年の7月位に書いた文章なんだけど、この段階ではまだ僕は文脈替えを期待していたんです。というのは美術という言葉ではない別のジャンルが、アートとか美術とは呼べないもの、、ジャズやロックはクラシックから派生したものの、音楽のジャンルとして確立したように、、そういう別の文脈のものがパソコン環境によってできる可能性を論じていて、そういう考えを持っていたんですけど、この「中ザワヒデキ以後」以後、僕は96年に特許と取りにはしって、不可視関数試論を作ってデジタルネンドを作って、それらの落としどころは美術だと確信した為、97年から保守反動に走って、新大陸を目指すのではなく、美術という中で発表していく様に変わった。新大陸論の方向性には行かなかったという事です。

こ:新大陸に行こうとしてたというのは、なぜですか?

中:それはこの話とは別の話だけど、特許、ビットマップ3Dを産業レベルの発明ではなくて、美術文脈の話であって、そのなかでの発明をしたという意識が非常にあって、放っておくと美術に落ちていかない。でもそこで美術をやるためにこういう事をやっているという自覚をして、反芸術というのを、反芸術というのは芸術だからこそ反芸術と言えるんだという事である、っていって保守反動に走りました。という事です。

は:カンダダで芸術特許のレクチャー(*1)があって、その時は観客の側は特許を使って何かやるのかなと思っていて。

中:芸術から離れる方向を期待していたんですね。

は:中ザワさんとしては特許と通して自分の根本的な考えを説明したいという事だったと思うんですが、観客側はそういう印象がありました。

中:都築さんが分析していたんだけど、主催者の側もそういう感じがありました。中村政人は絵画、彫刻でないアート。社会に交わっていく方向性の、絵画や彫刻じゃないアートを指向していたんだけど、僕が持ち出したのは、色彩、形態とかビットマップ、ベクター、2次元、3次元とか話したくて、中村政人の思惑とは違う方向性で、それに気づいた都築さんはそれを楽しんでくれた。その辺は岩波の「哲学」に詳しく書きましたが、3Dビットマップの概念を確立したかった。それを確立することによって、色彩と形態、平面と立体という表をきちんと表せる。そのことによって、相当いろんな事が明らかになっていくんだけど、3次元ビットマップ自体がうまく行かないと表自体が認知されない。だから3Dビットマップというジャンルをきちんとつくるという事が一番やりたかった。美術には原始論的なアプローチ、それはヴェネツィア派、色彩論的なアプローチと、それからフィレンツェ派的なアプローチ、ベクター的なアプローチ、イデア論的なもの、その二つが美術の中にはあって、絵画史の中ではヴェルフリンとかによって確立されてるんだけど、西洋絵画史だけではなく、デジタルでも、立体においてもそれは言えるんだという事。彫刻と塑像の対立はあるんだけど、そこを繋げて色彩が塑像とか、ベクターが彫刻とか言ってるのは無いのね、でも繋げる事で見えてくるものがすごく多い。それはデジタルにおいてもそうです。それがばらばらになっている。それを繋げると僕が言ってるだけだと、ただ気狂いがしゃべってるだけだけど、それが実際にあるんだというのが特許が査定されると明らかになってくる。

ひ:それはジャンルを作り出したいという事ですよね、そうなると、僕の簡単な考えだと、30人位それで活動してる人が一気に出てきたりするとジャンルの確立に繋がるとおもうんですが。

中:そうですね、その通りなんだけど、その為にはツールが必要で、それがデジタルネンドだったりします。でもジャンルの認知には弱い。なぜならまだブロックに見える程度の低解像度のものでしかない。だけどそれ以降の考えで、もっと高解像度のものも作れるという事を示すにはそういうソフトを作れればいいんだけど、当時のマシンスペックでは無理で、さらにそれを支持してくれる会社もいないと無理で、せいぜい特許までなら出来た。だからそれをやった。なのでそれで僕が実際の作品を作ってしまうのは話が違うと思っていて、だから特許より先には進みたくない。デジタルネンド表現者がたくさん出てきたり、次のツールが出てきたりすればいい。その為の技術がある事を確立しなければいけない、でツールが作れなければ、作るための特許を書いておく。特許に従ってやればツールが作れるよっていう事。排他的権利は目的では無いわけです。特許というとそういうニュアンスがあるけどね。そんなこと言ったっておまえの言っている事は絵空事でしょ、って思われていたのよね当時。”夢のような話を中ザワさんがしてくれましたが、、”みたいにね(笑)来るべき未来都市では空飛ぶ車が、、、と同じ話にしか思われてなかった。実現できる事の証明としての特許でした。

 今日は松沢宥ですね。

は:はじめにお聞きしたいのが|情念と概念 の所で、「叙情詩すなわち情念からの出発だが、原爆の問題の熟考を契機に、無意味語を羅列したような観念詩へと移行した」とありますが、無意味語っというのはシュールレアリズムの自動筆記とは関係ありますか?

中:自動筆記とは違いますね、無意味語を羅列したような観念詩。コンセプチュアルポエムみたいな事です。叙情が汲み取れない。抽象的な詩です。

は:そこから言語を使わない記号詩になったわけですね、観念詩の一形態としての記号詩。

中:原爆の詩は叙情詩で、その後0だけの詩とかが観念詩、その時はまだ0とかも数字なわけで言葉なんだけど、その後言葉じゃなくて○とか△とか使いだした。それが記号詩ね、○とか△は言語ではない、記号。

は:菊畑茂久馬との対談の「日本語がわかる物しかわからない日本語の詩っていうのは、これはつまらないのじゃないか。もっと世界中の人がわかるような詩を作りたいと思って、記号のようなもので詩をかき始めたんです」の引用の後に、「つまりその時点における言語の放棄は、言語の完全を期すあまり、その不完全性を断罪するかたちで行われたわけである。言い換えれば、言語を愛しすぎてころしてしまったのだ。」

中:しかしそれは逆説であった。「記号で書くから、自然に絵の入り口のようなことになる」という理由で、彼は美術家となったのだ。問題は、詩としては概念を媒介するはずの記号が、美術としては情念を媒介する画像であった事である。

は:詩から美術になっただけで、やっていることは振り出しに戻ってしまった訳ですね。

中:そうです、だけど媒体、ジャンルを変える事によって振り出しに戻った。

は:松澤さん自身が絵画やオブジェに興味があったんですかね。

中:それはどうでしょうね、かつて北園克衛の弟子だった事があった。多摩美の図書館に北園克衛文庫があります。観念的な詩を書いているんだけど、僕から見たら叙情に溢れているんだけど、行替えを頻繁に行ったり、そういう人の弟子。で観念詩を書いていて、北園は視覚詩の一つの形態に走った。例えば写真を撮って詩と称したりするようになった。オブジェの写真を物による詩とかね。でその中に松澤宥もいて、そこでの記号詩は○とか△とかさっき言ったけど、それが原稿用紙の升目に入っていたら言語的なんだけど、そうではなくて大きい△に線があったりダイアグラム的な感じで、原稿用紙の升目もまるで使っていない為に絵と読んだ方が良い。北園の写真は写真と読んだ方が良い、でも写真としてはつまらない。インターメディアの問題はそういう問題があります。なので松澤宥の場合は記号詩、シンボルポエム、それはデザインチックな図案みたいなのを詩と称している。それで自然と美術になっていった。なのでもともと美術に興味があったかどうかというのはどちらでもいいんじゃないかな、芸術家として普通に興味があったんでしょう。でもそれが元々どっちか迷っていてという事ではないかな。

は:次に物質自体に対して不信を持ってしまって物質を使わない観念美術を創始してしまった。前に、赤瀬川源平が犯罪について話しているのを思い出しました。

中:それについてはREARについて書いてあります。

ひ:少女愛についての所ですね。

中:おいおいやっていきましょう。たとえば「プサイ画」や「プサイ函」は、画像論的、オブジェ的には、物質に対するフェティッシュを顕にしている。彼自ら、「とにかく僕は、とことんものに、それこそ舌なめずりをしながらものをだいていた」と述懐している。美術におけるこのような情念の追求は一九六四年にもまた極点を迎えた。厳しい自己検証はてに、情念を媒介する物資自体に対する不信に行き着いたのだ。物質を使わない観念美術の創始である。「六月一日の深夜裏座敷にねていた私は『オブジェを消せ』という声を聞いた。私にとってそれは美術を文章だけで表現せよという意味であることを疑いもしなかった。六月四日(196464・101010)そう決めた観念美術が誕生した(*2)」

は:〈伝達美術〉「人間に見せるのみならず、岩にも樹にも天にも鳥獣にも音楽にも自己増殖機械にも 私はそれを見せる」

中:これはかつて記号詩で扱った問題を逆向きに解決したものだ。

は:そういう事ですか?

中:記号詩で扱った問題はなんですか?

こ:日本語がわかる者しかわからない日本語の詩っていうのは、これはつまらないじゃないか。という問題です。

中:そうです。動機は同じなんですね、記号詩に行くときは、日本語がわかる者しかわからない日本語の詩はつまらないって事で記号で詩を書き始めた。日本人だけじゃなくて皆に伝えたい。で記号になった。次のはがき絵画では、人間だけじゃなく岩とか木とか自己増殖機械にも見せるのだ!という事を今度は文字を使って言っている。同じ問題をかつては文字を使わないことによって解決した。今度は文字で一方的に宣言する事によって解決した。そこが逆向きだという事です。

ひ:記号詩って言いたいことは自分も分からないというか、形は目で見えるけど、内容が無いですよね。

中:そう、でも形を目で見えるから、それをそのまま伝えたい時に、宇宙人でも大丈夫。

ひ:伝えるという事だけですよね。

中:そう、普通は内容を伝えるんだけど、松澤においては、伝える、が内容になってる。宣言すれば解決する事になっていますね。言語愛から来る言語不信、物質愛から来る物質不信であり、究極の観念としての情念、究極の情念としての観念である。禅問答のようだが仕方がない。情念と観念という芸術の両極を、それぞれ本質までに還元した結果なのだから。自分でも面白がって書いていました。

は:次の|美術家である理由 では結果的には美術家にこだわったという事ですね。

中:そう、詩から美術にはすんなり行ったけど、美術から詩には行かなかったという事です。

 言語不信から、詩人としての常識を越える記号詩を制作したまではよい。これを一段階目としよう。二段階目として、かれは記号詩人にふみとどまらず、詩人から美術家に転じた。三段階目は物質不信から、美術家としての常識をはるかに越える観念美術を創始したことである。とするなら、四段階目は理論的には、観念美術に踏みとどまらず、美術家から再び詩人に転ずるはずである。実際、観念美術以降の作品は、「言葉で書くから、自然に詩の入り口のようなことになる」と理由づけられても構わないものばかりなのだ。

 あるいはこの矛盾は、四段階目でなく二段階目に差し向けられてもよい。のちに物質を消去しても観念「美術家」であり続けたように、言語を消去しても記号「詩人」であり続けるのでよかったはずだ。

 矛盾の原因はいろいろ考えられる。後世から見れば視角詩にほかならない記号詩が、その時点で有効とは考えにくかったのかもしれない。あるいは表現である限り、詩と呼ばれようと美術と呼ばれようと構わないと若者らしく考えていた可能性もある。

は:「しかし最も考えやすいのは、青年期における詩人としての自覚より、壮年期における美術家としての自覚の方が強かったことだろう」

中:他者から「これは美術だ」と言われて「なるほど美術だ」と思うような詩人ではない。他者から、「これ詩だ」と言われても「私にとっては美術だ」とはねかえしてこそ美術家だ。「自分はこの作品を美術の問題から作った」という自負が、それを裏打ちするはずだ。

は:本人は明言はしていないんですよね。

中:してないですね。

は:次の|スピリチュアリズム? では、「松澤の観念美術をスピリチュアリズムと銘打つことに、私は疑問である」と書いていますが、松澤さん本人はどういう意識があったんでしょうか?

中:本人は、ケースバイケースですね。コンセプチュアルアートでは無いから良いんだという言説にも乗るし、日本で最初のコンセプチュアルアートっていう言説にも乗る。したたかです(笑)意思表示をきっぱりとしているのは、天皇に関わるという事は違うと言っています。そういう誤解をされる事があります。日本とか神道に関わっているとか、そういうことも無いと言っています。

は:コンセプチュアルアートの文脈で中ザワさんは見ているんですね。

中:そうとはっきりは書いていませんが、大事な共通点があるという事です。

は:欧米のコンセプチュアル・アートとの共通点は何かという事が書かれていますが、松澤さん自身は理論で語るという事は無かったんですか?

中:あまり無かったですね。啓示を受けたとか、物質を使ったものはダメだ、みたいな事は言っています。

 物質の不完全性を断罪するという辺りで、物質にイデアは最終的には託しきれない、という事だと思うんですね。イデア論者としては物質は抹殺しなければならない。それはプラトンは芸術を禁止しているわけですよ。それとの同型性を見るべきだと思う。欧米のコンセプチュアルアートも、松澤宥も。とは言え、プラトンもアリストテレスより文才、詩の才能もあった。発禁になったりするけれど、書き移されたりして残っている。

は:むしろ指摘されるべきは虚偽性だ。とも書いています。

中:松澤の芸術をスピリチュアリズムだと賛辞するのではなくて、それは嘘だと言ってあげた方が正しいんじゃないかと僕は考えています。

は:神秘主義の語が批判的に使われたことも遠くないだろうと、彦坂尚善による批判と注に付いていますが、具体的にはどういう批判だったんでしょうか?

中:美共闘は、当時もの派一派と松澤宥一派があって、松澤宥一派は弱そうなんだけど(笑)図式的にはあった。もの派は物質派、松澤宥一派はイデア派。その二つを批判しつつでてきたのが美共闘。どう批判したかというと、もの派も松澤も、神秘主義にすぎない。で神秘主義じゃない所に芸術を持っていかなければならない。

こ:ちなみに「還元主義から表現主義(*3)」にも書いてあります。

は:|カタストロフィー・アート では松澤宥が連呼した、「人類よ消滅しよう」の意を反語すなわち人類救済か、ダダ的な否定性ととらえるかの違いが、1998年の駒ヶ崎高原美術館でのシンポジウムであったとの記述があります。ダダ的な見方に対しての反発がかなりあったと聞いていますが。

中:ありました。みんなからのけ者にされました(笑)会場からも反発がありました。石川翠さんはそれを本にしたかったらしかった

んだけど、僕のその発言のせいでそれが無くなったらしい。でもその後館長の人とかは僕の発言は好評でした。親派の人はほぼ救済派の人です。

 「人類よ消滅しよう」は「オブジェを消せ」から「万物消滅」を経て導かれている。すなわち「オブジェを消せ」のオブジェは美術文脈の物質だったが、カンバスが縮小していく過程を眺めるパフォーマンスが「万物消滅式」と呼ばれた瞬間、消滅すべき物質は美術文脈のそれから万物へと拡大したのだ。ならば自分を含む人類にも拡大されるというわけで、「人類よ消滅しよう」である。

は:「万物消滅式」はどういうふうに消滅していくんでしょう?

中:おそらく、毎日小さなキャンバスに変えられているんだと思う(笑)

 ここでの「拡大」すなわち観念美術を最終美術へ変奏する際の「拡大」は、美術の問題をそのまま世界全体の問題と認識するような、極端な芸術至上主義の表れである。そう考えれば「原爆を使って消滅しようというところまで含まれることもある」という本人の言も理解できる。芸術至上主義社は、芸術として原爆を自らの頭上に落とすことができるのだ。

 本人は気づいてないかもしれないが、自己否定も最終思考も芸術至上主義もまさしくモダニズムである。松澤芸術がコンセプチュアル・アート等のモダニズム美術と本質を同じくするとの観点からは、「オブジェを消せ」が反語でないように「人類よ消滅しよう」も反語ではない。人類救済という「人生のための芸術」ではないのである。

は:松澤さんは立場をあまり明確にしなかったと言っていましたが。

中:それはコンセプチュアル・アートとの兼ね合いです。けど神道に関しては否定するし、モダニズムに関しても否定をしている。「反文明委員会」では文明に対してアンチの立場。これは反博の一つです。それに対する考察はないかもしれない。反博は反モダニズムの反文明なんです。松澤はかなりその先頭に立っていた人でもあります。大阪万博はモダニズムとして考えていて、モダニズムは大阪万博だけではなく、モダニズムを徹底していくと、還元主義がでてきたり、それを徹底するとなにもないただのカンバスが出てきたり、グリーンバーグは否定しているけど、理論的には最高のモダニズム絵画として出てくる。結局そこから自己否定性とか最終思考がでてくる。次は何、次は何、そして最後を目指す。でモダニズムは、グリーンバーグ的なモダニズムは、絵画の純粋化を行った訳だけど、純粋化っていうのは芸術至上主義な訳です。表現の否定からくる自己否定とか、モダニズムの理論を美学的、自己否定的に押し進めると最終的には最終思考とかになってくる。これは大阪万博的なものとは違うんだけど、モダニズムとしては繋がっている。進歩主義的なモダニズムはその先にどうなるかということまで行っていないから進歩は続くで終わっているけど、それを哲学的に突き進めていくと自己否定とか最終思考、還元主義、純粋化に行き着く。それを古代においてしっかりやっていたのがプラトンのイデア論だと思う。モダニズムと同型です。その辺は美学の文脈を知っていれば。美学の文脈の中でのモダニズムは、結局同語反復に行き着く訳です。同語反復には結局意味がなくて、そこを自己否定とする見方もあります。

は:松澤さんは最終芸術と自分で言っているけど、モダニズムの自覚は無かった訳ですね。むしろ反対だと思っている。

中:でも難しい所もあって、モダニズムが最終思考に繋がらないと思っている人もいる。

あるいは同語反復に繋がるというのも一部の人にとっては当たり前の了解事項なんだけど、大阪万博的な事だと考えている人もいます。

は:本人の自覚のなさによって、現在の松澤の見方がいくつかでてきているという事が考えられます。

中:その対処をしていないですね。本人はアンチモダニズムだと思ってる所もありますからね、アンチ万博という意味での。あるいは、”人類の論理はダメ”ですから。でもその事こそがモダニズムなんですけどね。

 ここに見受けられるのは、芸術への不信を演じる芸術至上主義か、過信を隠さないそれであるかの違いだ。その過信を肯定性と誤解すれば、松澤芸術全体を反語的肯定とみなす誤解も生まれてしまう。

 むしろ指摘されるべきは甘えだ。美術文脈の物質が万物へと拡大するとは何事か。芸術家なら原爆を落としてもゆるされるのか。芸術至上主義者にとって芸術がいかにオールマイティであろうとも、社会はそれを容認しない。

 美術文脈の物質っていうのは絵の具とかキャンバスとかね、キャンバスが消滅しただけで万物消滅式になっている。でもキャンバスが消滅する事が万物が消滅する事だと松澤が考えていたわけです。でもそんなのは松澤だけの理由だろっていうのは美術に興味無い人から見た言い分ですね。美術に興味が無い人には届かないままやっているという事です。そこは美術家だからやっているんですっていう甘えで成り立っているという事です。

 松澤宥こそ芸術至上主義者です。だけど芸術至上主義者だって事自体が一般社会の中においては甘えなわけです。でそこを何にも批判されないまま論を進めても片手落ちなんじゃないかという事で、芸術至上主義であり甘えの構造があるという事をきちんと指摘した上で話を始めるべきなんだという事を僕は提案したわけですね。

 要するに松澤芸術は人類を救う芸術だと思われがちだけど、それ以前にそうじゃなくて松澤芸術は甘えでしかないんだという事を見ろという事ですね。松澤の芸術はスピリチュアリズムでとか言う前に、これは虚偽がある所から出発している、啓示を受けたとかじゃなくて、松澤自身が物質を使わないことにしたんでしょといわなければいけない。

は:スピリチュアリズムはわりと流行っていますよね。

中:それは僕はニューエイジという括りにしています。超絶理論でもあります。

 モダニズム芸術と松澤芸術の最大の差異は、甘えの対処の仕方かもしれない。前者はそれを最小限にとどめようとする。後者むしろその肥大化によって、逆説的に寛容が惹起する自体を狙っている。だがその道は険しく、困難だ。

 美術史をひもとけば、神無き時代の芸術が還元主義と芸術至上主義に至る必然が理解できる。その必然は松澤宥の芸術にも具現している。そこにみられる虚偽と甘えは、美術自体の虚偽と甘えだ。その虚偽や甘えは、コスース等の欧米のコンセプチュアル・アートにも言えるが、それを最小にしようとしている。松澤はそれを拡大する事によって、逆説的に無化しようとしている。最小にしようとしている方がわかり易い。松澤の道を辿るのは険しい。

 険しい道を辿る彼は、「敬して遠ざけられる」人かもしれない。あなたも困難を恐れるなら、美術は遠巻きにして近づかない方がよい。

 困難というのと険しいという言葉で繋げています。それによってキザに書きすぎた事です(笑)

は:本人は困難な道を選んだというのは結局自覚がなかったからでしょうか。

中:どこに対する自覚かな、モダニズムに対する自覚は無かったけども、むしろ確信犯だったとおもいます。たとえばここは紀元後2002年には海底になっているだろうという作品もあるけど、本当に海底になるとは思っていないですよ。だから自覚があります。それによって甘えの自覚もあるという事ですね。カンバスが縮減するだけで万物と名付けるセンス、これも確信犯的、自覚しているからこそ、芸術だからこそやらなければならないと思っているはずです。

は:確信犯としてやっているという指摘は、、

中:僕がこうしてしています。なのに周りの連中が超絶論理によって行けとかスピリチュアリズムだとか人類救済だとか言ってたら確信犯の彼が浮かばれないじゃない。だから甘えであり虚偽であると言わなければならない。松澤の言ったまま繰り返している人ばかりです。でも文章がキザでした(笑)松澤宥に対しての文献は結構ありますが、松澤宥にべったり寄り添ったものか、あるいは素朴な感想だったりして、僕のようなものは少ないです。僕は今泉省彦さんの方向性を受け継いでやっているつもりです。真実は松澤が自分に命じただけではないかと言ったのは今泉さんで、それを受け継いでいます。

 次にいきましょうか。公案です。

は:公案の左端に小さく、「この公案に挑まんとする者は2002年2月2日午後2時22分22秒を期して東京国立近代美術館前庭に最終の身仕度をととのえて来たれ」とあるんですが、何かあったんですか?

中:ちゃんとやりました。東京の国立近代という事ですごく大勢あつまりましたよ。これが最後のパフォーマンスかな。白い服を着て、80年問題を読むんだけど、パーフォーマンスじゃなくて別の呼ばれ方があったはずです。これは何をやったかというと、皇居に向って、天皇に向って「80年内人類滅亡」とやったわけです。そういう解説は無かったけど、明らかでした。話変わるけど、これ色薄くなってない?もっと茶色かったよね。

は:前持ってきたときは買ってからしばらく置いておいたんんですけど、賞味期限は大丈夫なはずです。

中:空気が入らない様になってるからそれはあまり関係なさそうだけど、パッケージの色より薄いよね。リンゴに異変があったのかな?リンゴのs茶色だよね、リンゴジュースに白いのと茶色いのがあるように、白いリンゴの成分が多くなってるのかな。そういう事にしようか(*4)

中:しかしこれは素晴らしいですよ。「宇宙大のコンピュータで140億年かけても解けない謎を今解いてしまった」、凄いよね(笑)これが出だしですよ。解いてしまった!こういうのは確信犯だと思いますよ、人類救済とは違いますよね。ここにも地球人類の論理はダメとあります。美術手帖の2002年2月号でした。なので1月発売で、きちんと告知になっています。

 次は「あいだ」です。一種のミニコミです。何のあいだかというと美術館と鑑賞者のあいだという事らしいです。元美術手帖の編集者の人がやっているものです、高島平吾と同一人物?違うかな。高島平吾は現代美術コテンパンの訳者です。元の題はThe Painted Word、描かれた言葉。奥ゆかしいタイトルです。内容は現代美術コテンパンです。かつてイラストレーションが美術にとってタブーなのはアメリカもそうで、その辺の事をジャスパージョーンズだとかその辺の事を書いています。内容はグリーンバーグとかローゼンブルクとかの批評家の方が真のアーティストで、その言葉に付けられたイラストでしかない、といった内容です。今回読む「あいだ」では松澤宥追悼号を3回か4回出していて、その最初の号です。

か:「美術家、松澤宥は生きている」ですが、正確にはいつ亡くなられたんでしょうか。

中:17日に出棺で、16日がお通夜だから2006年10月15かな。

か:その3日後にメールで一斉送信したものですね。内容が、

「1922年2月2日午前2時に生まれた美術家、松澤宥さんは生きておられます。なぜなら1981年に書かれた自筆年譜、1997年に編まれた松澤年譜のどちらもが、2222年を最後の項目としているからです。また、「その日」と題された作品においては、「人類の歴史は2222年2月2日にハ終ると考えるわたしの300才の年だハわたしは尚も生きる」と宣されているからです。

ますますのご活躍をお祈りいたします。

昨日午前11時半、下諏訪のプサイの下の階からの出棺、ならびに、午後12時半から火葬に立ち会いました。生前の松澤さんには本当にお世話になりました。私がイラストレーターから美術家に転身した最初の個展に、下記文言葉を賜りました(ウンモ星の言語で記述)。また、昨年の特許の個展にも、下記文字を賜りました(ビットマップとベクターが逆ですが)。

謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。

2006年10月17日、プサイの部屋にて起草

2006年10月18日、BCCにて一斉送信

九つの柱・第四の柱 中ザワヒデキ(美術家)」

ということですね。出棺の時に起草されたのですね。

中:そうです。火葬の後にお家に帰ってきたのも同席させて頂いて、その時にプサイの部屋に入れてもらいました。でもプサイの部屋で起草してないからね、行っただけです(笑)あ、違う違う、最後に書いてあるよね、「2006年10月17日、松澤家をあとにした私はその足で下諏訪郵便局に向った。前の晩から徹夜で用意してきた47通の郵便物に、当地で購入した『信州の切手』を貼付し、当時の消印が押されることを局員に確認してから投函した。内容は、『美術家、松澤宥は生きている』と題した文面と、数日後に府中市美術館で始まる私の公開制作のチラシと招待券、CDのチラシも同封した。翌18日、文面にあった『本日』の語を『昨日』に変更する等、多少の文言修正をし、BCCメールとして約1700通を配信した。上記は、私から配信したそのEメールと、それに対する返信の数々である。なお、私に訃報第一報を伝えてくれた詩人の松井茂からは、本Eメールに対して『お見事!』との電話を頂いたことを付記しておく」ここから分かる事は何ですか?要するに19日の晩に起草してる。これはプサイの部屋に行く前からこの文章を書いている。手紙の方は本日11時半になってる。だけど手紙でもプサイの部屋にて起草された事になっているけど何故かプリントアウトされて、そこにある。プサイの部屋にて起草が嘘だっていうのはちゃんと読めばわかります。

 この時は府中市美術館で脳波ドローイングをやるために僕の単一曲線の作品群を飾るから藤野の倉庫に取りに行ってて、藤野は電波が入らない位の山奥なんだけど、何故か携帯が鳴って、出たら松井茂で「松澤さんが死んだ」って言われて、すぐに千葉茂夫さんに伝えて、作業を続けた。でそのまま行動をしていた。府中市美術館での作業もあったんだけど、行けなくなったと伝えて、これができました。このビットマップとベクターが逆のやつは数字がカラーになっています。

か:1700通送って、その返信も掲載されています。これらは許可は取ってあるんですか?

中:取った人と取ってない人がいます。その辺はケースバイケースです。配信を停止してくださいという返信が一番早く来ました。こういう反応はもっとあってもいいのですが。この文章は読めばわかるというものです。

か:この時点で脳波ドローイングをやるのは決まっていたのですね。

中:そうです。オープニングでホワイトボードに松澤宥追悼と書きました。でも脳波ドローイングの為に丸坊主にしたんだけど、それが余計に追悼っぽく見えたらしい(笑)精一杯利用させていただいた形です、他人の死を利用(笑)この文章に関しては雑誌掲載時には改行位置を絶対に変えない、等幅フォントでお願いしました。「松澤宥は生きている」っていうのは死なないで!っていう事では全くなくて、むしろ反対の、死にましたっていうことを反語として使ったら面白いだろうっていう事でした。

か:2006年以降に松澤宥を特集した企画展はありましたっけ?

中:回顧展はないですね。そろそろやるべきですね、豊田辺りでやりませんかね。こんな所で今回はお疲れさまでした。





*1芸術特許レクチャー 中ザワヒデキがビットマップ3Dの概念を見つけて特許を取り、それについてのレクチャーを三週間に渡ってKANDADAで行った。ゲストは浜野保樹(東京大学大学院教授)、伊藤敦(特許庁審判官)、ドミニク・チェン(NTT ICC研究員)。リンク先に表があるが、今回本項の「松澤宥の逆」とは、ビットマップとベクターそれぞれに対応している色と形を逆に書いてしまった事である。→http://aloalo.co.jp/nakazawa/200511kandada/

*2自筆年譜(機關)ここに見られる数へのこだわりは年譜全体を貫く語法。なお松澤は、物質とものとオブジェの語をほぼ同義に使っているようだ。

*3「還元主義から新表現主義へ」 二〇〇七年十一月二十八日の文献研究で取り上げられている。→http://www.geocities.jp/bunkenkenkyu/20071128.html

*4 ここらへんは、半田さんがお土産で買ってきてくれた青森名物イカリンゴグミの話。

20090804  文責:平間貴大

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