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 中ザワヒデ
 キ文献研究
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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

第二期八回 

二〇〇八年七月十六日

文献
「中ザワヒデキ以後8 しりとり論」『ガロ』1995年3月号 p.264-267, p#.267-268
「中ザワヒデキ以後9 練習論」『ガロ』1995年4月号 p.252-256, p#.269-270
「『先見ゼミ』中間報告!」『ガロ』1995年5月号 p.030-031, p#.271-272
「中ザワヒデキ以後10 デジタル・オブジェ論」『ガロ』1995年6月号 p.272-273, p#.273-274

中ザワヒデキ以後8 しりとし論
|しりとりって言葉のDJ
|しかし完全シニフィアンではない
|「純粋しりとり」は可能か?
|ネット内しりとりで「早いもん順」は不向き
|「絵しりとり」の二例
|非整数次元のしりとり
|同じ語を繰り返そう!

中ザワヒデキ以後9 練習論
|どーせやるなら「練習のための練習」
|会田誠「なんとなくウヨク」展
|会田氏に電話取材してしまいました
|ほかに練習論としては……

「先見ゼミ」中間報告!
|ホワッツ先見ゼミ?
|先見の明でラクラク運命コントロール(笑)
|「タイガーマウンテン」について
|今後の「先見ゼミ」計画

中ザワヒデキ以後10 デジタル・オブジェ論
|ただそこにあるだけのモノ
|モノ同士の関係性?
|デスクトップもの派
|「アイコン限界フロッピー」
|「動かないキューティーマスコット56発!」
|「動かないキューティーマスコット56発!」その2
|「動かないキューティーマスコット56発!」その3
|補足になってませんが、列挙

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中:今日は第8回、じゃあしりとり論行きましょうか。

ひ:●しりとりって言葉のDJ ではしりとりの言葉のDJみたいな所が好きで、もっと面白くする為に「順番制」をはずして「ん」で終わるのもはずして、最後の何文字を取っても良くしたら面白そうという(笑)●しかし完全シニフィアンではない では散文がシニフィエを言いたい為の形式であるのに対して、詩歌はシニフィアンを目的にしている所が多くてしりとりはシニフィアンにしか用がない上に個人表現ではないから連歌の究極の形態と言っています。でも脳裏に浮かぶシニフィエが面白い事で、そうするとセンスの問題になってしまう。そこで●純粋しりとりは可能か? では文字を数字にすれば可能じゃないのかといって、1888−808−8990ー053、、、

中:これは一見面白くない、でもこれをイヤハヤーヤオヤーヤククレーれい子さん、、、とか読み替えたりしない限りね。この頃から面白くちゃいけないとか考えてるんですね。

は:ホームページでしりとりみたいに続くのありますよね。

中:逃網ってやつかなあれはしりとりになってるやつもあるかもしれないけど、しりとり自体はCD-ROMマガジンで発表したりしてる。逃網はいまやりかけのままかな。

ひ:●ネット内しりとしで「早いもん順」は不向き

中:そうですねこれはチャットの話ですね、チャットも含めてネットって言ってたかな。今はスカイプとかあるし時差あんまりないからできるんじゃないかな。

ひ:「絵しりとり」のニ例 では絵しりとりの次の番の為に2人が絵を描いて先に片方がアップしてしまった話。

中:絵しりとりはしりとりの楽しさよりも絵を描く楽しさの方があったって話ね。こんな話はもう無いですね。

は:パソコン通信の頃の苦労の話を聞いて今とは違うなと思いました。

中:そうだね、考え方も違うかもね、インターネットはどこが中心かわからない、インターネットに接続する業者と自分はお金のやりとりとかあるけど、そこがインターネットに繋がる。パソコン通信は電話みたいに繋がってる。パソ通の大きいのがニフティ

のフォーラム。もう無いのかな、インターネットから独立したパソコン通信みたいなものは。ファーストクラスのタイガーマウンテンは今のmixiにちょっと似てた。

は:コミュニケーションツールとしてですか?

中:うん、入ってくる人の感じも似てるかな。ニフティはおたくみたいな人が多かったけど。全部文字ベース、ニフティはクリックとか関係ない世界で画像なんか無かった。

ひ:●非整数次元のしりとり ではまるちしりとりを作り出して、従来のしりとりは図式的には一本線一次元のものだけど、枝分かれして自由にすると理論的にはフラクタルになる、これが従来の小説や従来の詩歌の1次元的構造すら突き破ったアイディアかもしれないと。そして同じ語を繰り返さない、これは動物的なものとは関係ありますか?

中:動物植物で1と多に分けてる、動物は一つの生命であり、植物の場合は枝分かれしてて、切り取って挿木とかできる、生命としても単体ではない、植物は本質的にフラクタル的な存在、動物の単数的な存在に対してフラクタル的な存在という対比で言えばね。

は:この注がいっぱいあるのはフラクタルに向っていますね。

か:そう考えられるのか。

中:そうですね、これはまだ本文と注っていう上下関係があるけど、全部が注、注が本文だと考えればこのマルチしりとりが、本文であり注であるという状態になる。それのルールをとっぱらってやったのがさっきいった逃網。当時ネットスケープっていうブラウザがあって、それのもじりでネットエスケープにして、それの訳で逃網。がんじがらめの網から逃げていけるだろうか、でもお釈迦様の手の上、みたいな(笑)そういうページにするはずがまだ途中です。

ひ:即興演奏でも同じフレーズを繰り返さないっていうルールは結構あって、テクノは同じフレーズの繰り返しがあって、ずれながらも繰り返して行く。

中:松前公高さんは、繰り返しじゃなくて、テクノの感じを出したいって一時期いってて、全部繰り返しじゃないんだけど、テクノな感じが出てくる。風鈴がゆれるとか炎が揺れているとか、同じ繰り返しはないけど、同じ定常状態なわけ。そういう事を意図的にやりたいと言っていました。

 このしりとり論に関しては石井香絵さんの論文に詳しいです。

は:このしりとり論を見て中ザワさんの”ロシア人はヒゲがソレン!そんなバナナ!(*1)”を思い出しました。

中:印種実験室のやつだね、考えていた事は似てるかも。次は練習論、小池さんがいないから「先見ゼミ」行こうか。

は:「先見ゼミ」中間報告!は95年に書かれていてタイガーマウンテンについて書かれている所があって、ネット内でショッピングモールの様な世界があって、そこでやりとりがあるっていうのは今は普通にありますよね。

中:この時点では買い物は出来ないけどね。インターネット直前のパソコン通信でこの1、2年後にアメリカが軍事用に使用していたインターネットを民間に解禁した。だからアメリカだけ国名なしでドメインが取れる。逆にいうとインターネットを使うという事でアメリカのシステムに乗ってる訳です。アメリカがインターネットを解放したのはもちろん冷戦が終わったから。

は:パソコン通信で通信添削ゼミをしたのは何故ですか?

中:進研ゼミとかアナログ通信は結構あって、でもパソコン通信の方が絶対早いし良い、さらに公開するといろいろ面白いんじゃないかと思って。あと池松江美さんのセンスとうまく繋ぎ合わせればニセ通信添削ゼミアソビという事が出来るはずってことです。

は:講師の池松さんが、扮する講師と性格があまりにも違う、赤ペソ先生の媒体と言う方が正しい。感動の赤ペソ体験談という所も池松さんが自分で作ってるんですよね(笑)

中:生徒のMas山寛さんとか36才だからね。

は:大往生問題とか面白いですよね。

中:素晴らしいですよね、これは本にしようという話があったんだけどね。

は:かとうひろやさん22才の”じゃんけんで決して負けない僕とか凄いですよね(*2)

中:でも赤ペソ先生が週一では大変なので黒ペソ先生とか緑ペソ先生とかがアストラル界(笑)から出てきたんだけど、赤ペソ先生が断然面白かった。

は:最後にネットで商売はなかなか大変だとありますが、

中:うん、ネット上で何かやるのも労力がいるから、どこからお金を取るかって話で当時はネット上の広告も無かったし。でタイガーマウンテンに入会するのも月いくらって払っててそういうのは大変だった。

は:先見ゼミ旅行はどういう事をやったんですか?

中:池松さんが素晴らしい手引きを作ってくれた(笑)先見ゼミ皆勤賞っていうのもあって、新田さんという人で、初めてオフ会で会った。男の人で池松さんが目が光る彫刻みたいなやつを贈呈してた。

 次行きましょうか。

こ:練習論です、ここでは初めにローマ字入力からかな入力に切り替えて1年半の時期という事で、かな入力のタイピングソフトが無いから作っちゃおうかという話から始まっています。

中:そうそう、速く入力したくてかなにしてみた。かなの方が速いね、いちどローマ字に変換する時間もないし、ミスタッチが圧倒的に減ります。何故かと言うとアロアロで池松さんだけかな入力で、そのパソコンを使って入力したら、6文字打ったはずなのに12文字でてきた(笑)これは速いと思ったきっかけです。

こ:”でも普通に仕事やってるのが一番の練習になる、しかし「練習のための練習」とゆ、ある種不毛な地平に行ってみたいキブンもたしかにあったりするのです。”と、練習の快楽ってものがあるかもしれないと、それで会田誠の「お習字プロジェクト」これは毎日会場で本人が習字の練習をして、最終日にパーティで習字の練習の成果を見てもらうべくお習字パフォーマンスをするというもので、書は芸術的なものではなく、いかに楷書のお手本通りに書けるように上達したかという所がポイントになっています。そこで電話取材をしたわけですね。

中:この時のパフォーマンスは凄く混んでて盛り上がってたな。95年。小沢剛さんをこの連載前のガロの記事でなすび新聞をとりあげた時に、字がヘタなのがおかしいとか書いてたんだけど、会田さんは自分はそれは嫌だ、楷書できちんと書きたいとか言ってた。(笑)

 今気づいたけどこの「犬月」っていう言葉を僕が気に入っていいなあとか書いてるけどこれその後作品になってるよね。

中:習字プロジェクトは方法主義ですね、自由を否定しているという点では。

こ:会田さんが言ってる”しかしこれは美術内美術ですね”っていうのはどういう事でしょう?

中:美術内美術っていうのはその文脈がないと面白がれないという事で、何も知らないで見ると、あぁこの人は字がうまくなりたいんだなとしか思わないという事です。

こ:中ザワさんの質問で”練習帳とか、練習ということ自体、特殊な物だと思うのです。たとえば「青空」という字は普通にはそのとうり青空でしかないのですが、いざ練習の対象になると、青という字のここの棒はこの位長く引っ張って……とか、そんな状況になってしまう。青空という言葉の意味とは無関係な自体が生じてしまったりする。”に対して”中国の漢字のいろはみたいな、ピアノのバイエルみたいに習字の定番にもなっている本で練習して、いい加減にやって難しい字を飛ばしてたら「犬月」という言葉が出てきた”とか面白いですよね。

は:練習に逃避する事も可能で練習の快楽、アブナイ幸せがあると思うとか、方法主義の感覚と共通する物がありますよね。

中:そうですね、すごいパフォーマティブな見せ方だし、コンセプチュアルだという事が分かりますよね。のちの方法主義の話に引っ張ろうとしていますね。音楽の話も出してて、作曲の音との間に演奏という段階があって、そこにピアノの練習みたいな要素が入ってきて、「作曲の領域」という僕の文章とも繋がる話だしそこに問題を感じていて、ハノンてあるじゃない、あれは観賞用として僕は素晴らしいと思ってる。ギャラリーセラーの武田さんも良いと言っていたけど、方法主義の時に琴の為のハノンとか作った。

補足でいうとショパのンとかドビュッシーとか出したけど(*3)、美術だと習作の方が素晴らしいとかあるけど、音楽も実験的な事をするときに自分でもきちんと作品として残したくない、そういう時に習作として残したりする。でもその方が新たなアイディアを入れやすい。最初の抽象絵画で言うと、最初の抽象絵画はどれかって、抽象絵画っていう概念が確立してから探したりするとカンディンスキーの習作だったりする。でもこれが最初の抽象絵画の第一作で素晴らしいものになると描いてるんじゃない。アイディアがこれでいいのかと自問自答しながら描いている。こんなの絵じゃないんじゃないかとかね。でそういう概念がないまま描いているのは練習曲だったり習作だったりする。デュシャンのレディメイドもそうだよね、作品として出したのは「噴水」だけどそれは1917年で後から最初のレディメイドとされているのは1913年で自転車の車輪で、それは自分の楽しみの為にやっている。練習曲とか習作では本番ではない為に面白い事が出来たりします。でそいういうつもりはあったりするかとか聞いたんだけど、まるでないね、これに対しては。

 あと僕の「シュトックハウゼン/ナンカロウ」では一つのテーマは習作。シュトックハウゼンも習作がとても面白くて、ナンカロウの自動ピアノの作品は全部スタディーズ、習作。実験的なんだけど本人もちゃんとした曲だと思ってないのかもしれない。

 次行きましょうか。

か:デジタル・オブジェ論ですね、この文章では「アイコン限界フロッピー」とか「動かないキューティーマスコット56連発!」とか出てきますが、こういうのは95年のキッズボックス(*4)に繋がって行ったものだと思います。例えばパソコンで何ができるか、とかパソコンは凄いものというイメージがあって、そういうのを見に来ている人達はつまらない物に感じてしまう。当時から技術を追求するんじゃなくて、在り方を追求しているのが面白いなと思いました。

は:子供って自分で作りますよねこんなやつ、プラレールみたいなのもあるし。

か:キッズボックスは面白かったです。●ただそこにあるモノ(ダダのオブジェ) ではダダが反芸術としてフランス語の日常用語としてオブジェを芸術で使用した。それまでは形態に美だの意味だのが否応なく込められていた。ここでハンス・アルプが出てきます。アルプで言えば有機的かつ生命的なものっていうイメージがありますけど。ぐにゅぐにゅしたやつとか。

中:うん、有機的かつ生命的という意味を取ってみると、なんだこの意味のないものは、って見れる。かれはダダかシュールレアリスムの時代を生きた人で、なんだこの意味のないものは、って時代は数年で終わる。その後は、この不定形のモノにこそ魂は宿るみたいな事をいって、シュールレアリスムになっていく。でもこういう言葉になりにくいモノを最初に作ったのがアルプだったりします。あと今実体験できない可能性がある。あとマネのオランピアね、我々から見ると全然過激じゃない、でもいかに当時ありえないほど過激だったか。これは当時の状況にならないと実体験は難しい。

か:●モノ同士の関係性(ミニマリズムのモノ) では「ただそこにあるだけのモノ」に着目して、そういう美術史上の運動が、アメリカだったらミニマリズムで、日本だったらもの派。ミニマリズムとコンセプチュアルはダダ〜シュールレアリスム期の発想の焼き直しに過ぎない。でダダとの相違点は、モノ同士の関係性という新たな局面が立ち現れてしまう。日本のもの派ではリーウーファンの作品名が「関係項」であったり菅木志雄の作品にも「状況律」といった題名がついていたり、「ただそこにあるだけのモノ」からさらに、そのモノが置かれる状況などにも関心が向っていることがわかります。●デスクトップもの派 では、95年の時点で、再びミニマリズムやもの派に脚光が浴びせられる時代になってきてると。

中:この直前まではミニマリズムは悪役だった。ニューペインティングの時代に、ミニマリズムは古いとか、頭の固いのは駄目だねとか。でその時代が終わってきて再評価されるのが95年位ですね。

か:で中ザワさんがマックで作業しているときに、デスクトップ上のアイコンを「これはモノだぞ」と思い始める。

中:これは幽体離脱論の時のデスクトップリビング論との繋がりでもありますね。

か:そこからアイコン限界フロッピー(*5)が出来上がるわけですね。

中:これは商品になってて、受注生産しています。

か:●「動かないキューティーマスコット56連発!」(*6)ではアイコンには絶対に名前をつけなくてはいけない、何も付けないと「名称未設定」「名称未設定2」「名称未設定3」…と強制的な作りに「名前を付けなければ存在してはいけない」と考えるんですが、もの派的見地からは、名前は邪魔です。とくにアイコンの性質上すぐ真下にその名前が表示される様になっているので、ビジュアルとしてアイコンと同時に目に入ってきてしまう。

中:そこは菅木志雄の「ものが無名のままある」に繋がっててさらに言うと、アルプじゃなくても初期のオブジェっていうのは名前がないぞっていうニュアンスなんだよね、ただのモノだぞ、というような。もの派もそう、彫刻とかならわかるけど、ただのものじゃないかと。

か:キューティーマスコット自体はデスクトップで小さなアニメーションを楽しむというものですか?

中:今でいうと携帯の文字打ち込む時に動いてるキャラクターみたいな感覚に近いです。

か:キューティーマスコットはアニメーションで動くアイコンが作れるんですよね、でこれを使うとアイコンの名前がしたに表示されない。そこであるがままのアイコンでデスクトップもの派的作品が作れる様になったと。で同時にたくさん同時に立ち上げるとエラーを起こしてしまう。

中:そうです、そこが面白かったんだよね、ヘアライブでもそれをやった。イニットっていうのがあって、システムを立ち上げる時にあらかじめ読んでから立ち上がるんだけど、それをいっぱいやるとシステムの動きが遅くなる、それを256個いれといて、どこまでいくか(笑)。

か:マウスポインタをいっぱいふやしてどれが自分だかわからなくしようともしたんですね、

中:これはシミュレーショニズム理論にのっとった自己アイデンティティー破壊の作品ですね、これは作ってない。

 ミニマリズムの対極のようでいて実は同じ事でもあるコンセプチュアリズムについて、つまり「もの」と対極としての「ことば」についてきっと掘り下げ甲斐があるだろうということと、そしてそれはきっと現代数学方面でのいわゆる数学オブジェと、それを記述する代数学との関係になりはしないとか、幾何から代数の方向性の逆向きのベクトルがデジタル世界におけるオブジェとしての音という概念の話とか、さらにはマスコット同士の等価性だとか、その後の動くキューティマスコットの話とかあるけどね、音の話では音圧とか音の塊とかの話かな、でも楽譜上の話だと例えば鍵盤の音は点的です、対して尺八とか日本の楽器だと一つの音がびーっと延びて一つの音としているものもある、それはベクター的な音だよね。デジタル世界のオブジェクト指向っていうのはいくつかのプログラムを連動して一つのプログラムにする、そういった考え方ね。

 今日はここまでにしましょうか。


*1:ロシア人はヒゲがソレン! そんなバナナ! な〜んて言いながらすっごくながーいタイトルつけちゃったりしたりして。チョッチー、その「ちゃったりしたりしちゃったりして」ってゆーいーかた、やめてくんな〜い? もー、ちょーむかつくー。盲腸。チョムカーっロシア人はヒゲがソレン! そんなバナナ! な〜んて言いながらすっごくながーいタイトルつけちゃったりしたりして。

http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/old/experiment/index.html

*2:かとうひろやさん 22才 じゃんけんで決して負けない僕―先見ゼミをずっと初回から解答しちづけている僕は、始めてからじゃんけんで一度も負けていません。相手が次に何を出すのか分かるのです。じゃんけんだけでなく百人一首も滅法強くなりました。それと、おつりが取り忘れられている自動販売機が10メートル先からでも見分けられるんですよ。たまに友達や姉に教えてあげて重宝がられています。まわりから、カリスマ性がでてきたね、とよく言われる今日この頃です。

*3:音楽の文脈でも練習曲って面白いとぼくは思っているのですが、たとえばどんなピアニストでもまず毎日必ず日課のように弾くハノン(単なる無機的な「指の規則的な運動」のためだけの練習曲)みたいなものや、子供の時通過する、先ほども出ましたが(*3−1)バイエルみたいなものもあります。そういったレベルのものからさらには、ショパンの練習曲(エチュード「革命」「黒鍵」等)のように芸術度のきわめて高いものもあります。たぶんそれは音楽では作曲者と演奏者が分かれているせいでえもあるんでしょうが、おそらく練習曲という取りあえずの言い訳の上にのっかって、実験的なことを作曲家が試みる、つまり既成の曲の概念にあてはまらないような事を「これは練習曲だ」という大義名分のもとに発表してしまうというような自体もありうるのではないかと。そしてさらには、これは練習曲ではもはやないのですが、ドビュッシーの「子供の領分」の一曲目「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」という、子供のためのつまらない練習曲を、ただつまらないというためだけのの曲だとか、あとこれはタイトルズバリですがサティの「官僚的なソナチネ」という、子供がピノレッスンというかたちで通過するつまらないソナチネをパロッた作品だとか、まあクラシックの分野だけでもすでにいろいろあるわけですね。

*4:KIDSBOX 95年の11月に(株)アスク講談社から発売となった、中ザワヒデキ作のエデュテイメントソフト。windows用。

http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/old/kidsbox.html

http://www.ask-digital.co.jp/modules/wordpress/index.php?p=275

*5:アイコン限界フロッピー 中ザワヒデキオリジナルのアイコンを付けた空フォルダをフロッピーの容量限界まで詰めた作品。リンク先上から2段目。

http://www.aloalo.co.jp/products/product-fd.html

*6:動かないキューティーマスコット56発! 同リンク先上から5番目。

20090707 文責:平間貴大

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