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 中ザワヒデ
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【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分 には公開しておく意義があるとし、公開している

 

二〇〇八年二月十三日

文献
「形式還元から方法還元へ」 方法機関紙 第一号
「ヒロヤマガタ問題」 方法機関紙 第二号
「色彩絵画の帰結」 方法機関紙 第三号
「絵画から塑像へ」 方法機関紙 第四号
「加速の要請」 方法機関紙 第五号
「素材の自明と感動の不要」 方法機関紙 第六号

 この日から数週間にわたり、文献研究は方法機関紙の通読を行うことにした。初回となる今回は 宣言については中ザワ自身が読み上げたらどうかと田村は提案したが、その流れで各文献を一人づつ持ち回りで 朗読する運びとなり、文献研究ににわかに朗読会の気配が生まれた。以下に各文献について研究成果を整理していく。

  「形式還元から方法還元へ」の第一段落ではまずグリーンバーグに代表されるようなフォーマリズムの還元主義を 「形式還元」と呼び、還元の別の仕方である「方法還元」の存在を、その言葉はまだ用いられていないが 、明示している。その上で芸術史における単一原理の 現れについての例証に移るが、単一原理については『現代詩手帖』の「方法詩論」でも議論が展開されている。中ザワは この単一原理を通時的でも共時的でもあると考えており、共時性については『妃』の「「方法」の活動と終焉」の冒頭に 詳しい議論がある。単一原理の通時性については文献もなく、さしあたっては個々の共時的な単一原理は通時的な単一の ダイナミズムに回収されるという説明がされたが、この点はまだ未確認な部分が多いので未確認である旨を防備録として もここに書き留めておく。

  第二段落では中世から近代への移行である単一性の崩壊を単一原理として例証するために 「一点透視→多視点」「一意対応→多意・無意」のような「一→多・無」の例が挙げられているが、後者の例は 造語のために説明を要する。一意対応はソシュールのいうシニフィアンとシニフィエが合致した状態で、多意は 詩的言語のような意味の複数性を留めた言葉、無意はダダが追求した音響詩のような意味を成さない記号である。 なお、ここで用いられている「一」と「多」は、「高松次郎と数の宇宙」などで用いられている「単一・複数・多数」 の概念とは異なっており、注意を要する。

  第三段落では今日の単一原理である「具体と形式への還元」の例証のために、そこから逆算していくつかの 例を挙げている。ミニマリズムは平面・立体という具体に向かい、コンセプチュアリズムは定義そのものへと向かう。 音楽ならば、ケージら実験主義は時間という具体へと向かい、シュトックハウゼンら音列主義は音の順序関係という 定義へと向かう。コンクレートポエムはその名も具体詩であるし、また、北園克衛に代表されるヴィジブルポエムは 詩の定義へと向かう。

  中ザワ自身はよくまとまったと考えているが、松井みどりなどは例証の部分がかえって恣意的に感じるなどの 批判を加えているという。なお、結びの一節である「いたずらな反論理主義は、愛すべき蛇足だろう。愛されてはなる まいに。」の意図が不明だと田村が問うと、これはサービスみたいなもので、こういうロマン主義的な一節が最後に あるとよくわからなくてもなんだか読んだ気になれるという効果を狙っているという。事実、よくわからなかったけど 最後のところは好きでしたという反応も返ってきたという。

  「ヒロヤマガタ問題」はすでに一月三十日の研究で触れたためにこの日は多くを語らなかった。その日の文献 研究から再録すれば、ヒロヤマガタ問題は中ザワが方法主義を取る上で重要な役割を果たしたものであり、中ザワは ヒロヤマガタ問題は第一回の原稿になってもよいくらいだったと発言している。詳しくは一月三十日の報告を参照され たい。

  「色彩絵画の帰結」も早足で通り過ぎてしまったが、この文献は中ザワの数少ない色彩論として短いながら 重要である。色彩を形式還元するとシュポール・シルファス運動のように平面やキャンバスに到達するが、 色彩を方法還元すると多数性と差異性に到達するというのが中ザワの論旨である。つづく「絵画から塑像へ」で この論がより深く展開されので、ここはひとまず方法機関紙以外の文献から『西洋画人列伝』のスーラと ドラクロアの項目(いずれも色彩=多数構造だと言明)、雑誌『ユリイカ』収録の「作曲の方法〜シュトックハウゼン、 ナンカロウ〜」の150頁、そして『西洋画人列伝』には「絵画は色彩・平面である」という主張をするためだけに 描かれたというドニの項目がある。なお、文中の「変形カンバス」はヘルズワース・ケリーを指しており、これは 「中ザワヒデキの5000文字」のいずれかの回が関連文献になっているという。

  「絵画から塑像へ」では前述の文献で触れた色彩の多数構造に「多数性=筆触分割」「差異性=色彩分割」という より絵画的な説明を加えての色彩・絵画論になる。また、ここでようやく方法主義の手法である「方法還元」がその名を 与えられて定義されている。中ザワによれば、この文献を書きながら「これを方法還元と呼ぼう」と思い立ちそのまま文中 に投入したとのことである。形式還元と方法還元の違いについて中ザワは以下の図を描いて説明した。再録する。

   色彩   形態
平面 【絵画】 【素描】
立体 【塑造】 【彫刻】    
               ※色彩=多数構造 形態=単一構造

ここで、平面/立体の軸を考えると(つまり、色彩/形態の軸を無視すると) 形式還元が起きる。すなわち、絵画・素描はまとめて平面に 還元され、塑像・彫刻はまとめて立体に還元される。先の図を形式還元の考え方に整理しなおすと、 色彩/形態の軸が消滅し、以下のようになる

平面 【絵画・素描】
立体 【塑造・彫刻】

一方、色彩/形態の軸を考えると(つまり、平面/立体の軸を無視すると)方法還元が起きる。 すなわち、絵画・塑像はまとめて色彩に還元され、素描・彫刻はまとめて形態に還元される。これも先の図から 方法還元の考えに整理しなおすと、平面/立体の軸が消滅し、以下のようになる。

色彩   形態
【絵画  【素描
・塑造】 ・彫刻】

  なお、この図を描くにあたって中ザワは日本語における美術用語の便宜の悪さについて触れた。 中ザワの頭にあるのは、絵画=painting、素描=drawing、塑像=modeling、彫刻=curvingである。 いずれも制作の中心になる行為・方法について触れており、日本語ではこのニュアンスが抜け落ちる。 drawingにあたる日本語は事実上ないために「素描」としているが、これは誤解を招きやすいという。 また、「彫塑」という言葉が次第に「彫刻」に取って代わられ、塑像と彫刻の区別が消滅している 現状もある。したがって、所与の言語環境において色彩/形態の区別をする概念が不足しており 、なおさら方法還元の軸が見えにくくなっている。方法主義が理解されず、グリーンバーグ的な形式還元 が日本においていまだに権威を有しているのはこうした事情によるのかもしれない。

  なお、この文献は中ザワによるグリーンバーグ批判でもある。グリーンバーグ・形式還元に対する 批判はマイケル・フリードが有名であり、彼は美術の演劇的を明らかにすることで 還元主義の純粋性をいわば社会の中に引き摺り下ろし、グリーンバーグの理論をまっこうから 否定している。彼の批判がいわゆるフリード論争としてパラダイム を形成し、日本の議論もいまだにそれに追従する中で、中ザワはまったく異なる批判の方法をとった。まず、 形式還元であるグリーンバーグが絵画も素描もまとめて平面に還元し、塑像も彫刻もまとめて立体へと 還元していることを明らかにする。そして、色彩/形態の軸を示すことで方法還元の存在を明示し、 グリーンバーグの理論に立ちながらその非徹底を指摘することで批判を行っている。

  本文献はデジタルネンドについての報告でもある。本来ならば方法還元の存在を明らかにするために 色彩/形態の軸をタイトルでも強調すべきだったが、デジタルネンドの報告のために「絵画から塑像へ」 といった平面/立体の軸を強調したタイトルになってしまっている。なお、文中で「単体大理石彫刻美学/ 群像青銅塑像美学」という造語が出てくるが、立体・色彩である群像青銅塑像の「塑像」は本当ならば デジタルネンドにあわせて「ネンド」にしたかったところだという。しかし美術関係者ならば塑像が ネンドで鋳型を作るものだからわかるだろうとして彫刻/塑像という対立軸を用語の上でもはっきりさせている。 先の図に従って考えるならば、デジタルネンドとはデジタル塑像であり、つまりデジタル・色彩・立体となる。

  「加速の要請」はカナダのバンフでレジデンス中の中ザワが、足立智美の方法主義第二宣言との対決を 控えて書いたもので、「真のポストモダニズムはない」というのが論旨だという。当文献では「話者」「非話者」 という言葉が出てくるが、これは「話者=モダニスト=中ザワ」「非話者=ポストモダニスト=足立」という 想定で書かれていると中ザワは説明した。これに対して足立は、そもそも話者/非話者という分別をしないので その前提に立って書かれた文章にはあまり興味がないのだと反応したという。

  「加速」とは拡大再生産のような近代の運動原理である。中ザワは名づけること(同語反復を定立させること) 自体に加速性があると考えている。つまり、シニフィアン・シニフィエの一意対応が自明であれば、それに 立脚した演繹が可能になり、高度なシステムの構築が可能になる。同語反復の自明性が問われることになれば、 演繹ではなく分析に向かい、システムは構築ではなく解体に向かい、加速ではなく減速が起きる。中ザワはとくに 言及も意識もしていないが、モダニズムの金字塔であるシステム理論もまた「システムの根幹は同語反復にある」 という結論に達している。

  文章は、第一段落ではまだお互いに関係をもっていない話者=モダニストと非話者=ポストモダニストの像が 描かれ、続く段落でそれらの組み合わせが展開される。「『話者の糾弾』のための話者」、「『話者の糾弾』のための非話者」、 「『非話者の糾弾』のための非話者」、「『非話者の糾弾』のための話者」の四類型である。それぞれの類型について 具体例がないとわかりにくいということで中ザワを中心に例を出し合った。「『話者の糾弾』のための話者」は 対抗モダニズムによる支配モダニズムの批判ということで共産主義が挙げられた。「『話者の糾弾』のための非話者」は いわゆるポストモダニズムとしてフェミニズムやポストコロニアリズムで、糾弾を行うには発話が必要であるから、 実はモダニズムに陥っており非話者を装った話者である。「『非話者の糾弾』のための非話者」は、ポストモダニズムを 愚直に徹底したもので、発話を完全否定することがそのまま暴力につながるような状況が想定される。多様性・ 文化相対主義を徹底させると暴力を含むあらゆる行為を容認しなければならないという文化相対主義の矛盾を田村は想起したが、 中ザワはそれもありだが自分はエピキュロス的な快楽主義を想定していると訂正した。中ザワは快楽主義には与しないが、 必ずしも間違っていると考えるわけでもなく、協力関係を結ぶ可能性さえあると述べた。「『非話者の糾弾』のための 話者」は禁欲主義・シニシズム・方法主義であり、中ザワ自身の立場である。

  こうした文献が書かれた背景には、80年代の浮かれたポストモダニズム旋風がある。中ザワ自身も一度は ポストモダニズムの側に立ったが、そこで理不尽なモダニズム批判に触れて次第にモダニズムの擁護側にまわる。これは 「『非話者の糾弾』のための非話者」であるポストモダニズムが、実際には話者でありながら非話者を装ってモラトリアム を享受しているからである。こうして「どちらにしろ話者としての加速を要請される」という結論が導かれている。

  中ザワがモダニズム/ポストモダニズムについて直接述べた文献はこれくらいだが、最終段落の部分は 「中ザワヒデキの5000文字」第二回のセクション5の部分と関連している。

  「素材の自明と感動の不要」は中ザワの二項対立論の一端をなしているが、感動/快楽の項はこの文献が 唯一である。感動は動物・単一性・イデアなどの側に対応し、快楽は植物・多数性・アトムの側に 対応している。中ザワいわく「動物がご飯を食べるのは感動、花壇は快楽」ということだが、これだけではまず 理解不能なので詳しくは「中ザワヒデキの5000文字」第四回の二項対立論を併読されたい。

  ここで中ザワは色彩絵画は自明な要素を用いるものだという主張を行っている。中ザワはこの自分自身の 主張を守り、自明な要素としての文字・タイル・貨幣などを用いて色彩絵画の方法還元的作品を制作している。 中ザワが美術家として文字などを使うと「これは美術のものではない」といった批判を浴びることが多いようだ が、中ザワは「美術という文脈から見て自明なもの」を求めて「美術の外にあるもの」を用いているのだから批判 には当たらないと考えている。にもかかわらず、文字を使っているというだけの共通点で、文字の自明性を犯して いる作文字作家と同じ系統として語られることがあるなど、つねに誤解に満ちた評価しか受けないと中ザワは不平を 漏らした。

  このあたりで雑談の流れとなり、残りの文献は自週にまわすことにして夕食の用意となった。この日の 献立も失念したが、とにかくおいしかったことには間違いがない。おいしい食事が楽しめる中ザワヒデキ 文献研究は引き続き美学校にて開講が定まっています。ぜひこぞってご参加ください。

20080312 文責:田村将理

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