- - - - - - - 中ザワヒデ キ文献研究 進行状況逐 次報告 - - - - - - -
【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分
には公開しておく意義があるとし、公開している
二〇〇八年一月三十日
文献
「美術美術1日大学」 『イラストレーション』1991年10月号 pp.90-92
「ヒロヤマガタとは?」 『スタジオボイス』2000年9月号 pp.48-51
「楽しくなりすぎないこと」 『スタジオボイス』1999年3月号 pp.131
この日の文献研究は「美術美術1日大学」、「ヒロヤマガタとは?」、「楽しくなりすぎないこと」を扱った。それぞれ異なる時期に異なる話題について書かれた ものなので各文献間のつながりはあまりない。以下にそれぞれの文献についての検討内容を報告する。
「美術美術一日大学」(「美術美術」は「ピチピチ」と読む)はアクロス編集部から パルコのフリーペーパーとして定期刊行されていた『GOMES』に中ザワが連載していた 「今月の美術美術学」(「美術美術学」は「ピチピチギャル」と読む)の内容を吉祥寺のパルコにおいて 一日大学として開催した後に、玄光社の隔月誌『イラストレーション』が取材をしてまとめた記事である。 したがって、中ザワ自身の文章ではなく、中ザワ自身が読むと細かい間違いが多数あるという (「去年出た『近代美術史テキスト』」と書かれているがじっさいは一昨年、など)。ちなみに中ザワに よれば『GOMES』の「まちがってるんじゃないか」というくらい子供じみたノリを徹底しており、 西部の堤次男が「これはもうサブカルチャーじゃなくてサルカルチャーだ」と漏らしたという逸話も あるほどで、当時すでに終わりかけていた80年代のノリを最後まで保っていたのがこの 『GOMES』であったという。
吉祥寺パルコで開催された美術美術一日大学はパソコンを用いた講義となったが、 まだプロジェクターがなかった時代だったこともあり、参加者全員でマッキントッシュのモニターを 覗き込むという調子であったという。パソコンを使った講義というのもほとんど実践されていない 時期だったが「そういう時代が来る!」と確信していた中ザワは敢行したのだと述べた。じっさいに 取材を受けたときなぜわざわざパソコンを使うのかと聞かれたようで、それにはパソコンはいつか 必ず雑貨化するからあくまで雑貨として使ってやったんだと答えたという。
この頃は中ザワのセミヌード期であり(2007年12/12報告「バカCGのすすめ」参照)、やはり ここでも角をあしらって頭に烏賊のゴム人形をふたつ乗せた中ザワが上半身裸で満面の笑みを見せている。 中ザワは写真を見て「この頃太ってたな」と漏らしていた。じっさいの講義は半ズボン・生足・ ミニー帽・ナース服という華やかないでたちで行われ、その写真も当文献に収められている。理由は 思い出せないがこの頃はよくミニー帽を被っていたと中ザワは思い返し、美術美術一日大学 の卒業証書(名刺サイズ)もよく見るとミニーがデザインされていることを写真を示しつつ指摘した。
美術美術一日大学で用いられたダイアグラムには、現在の中ザワの美術史観とやや異なる 部分がある。中ザワは美術美術一日大学では「ヘタ/反芸術/死」という三段階の移行モデルを 出しているが、これは今ならば「生/死/死後」として表現されるはずだと付け足した。なお、 この三段階モデルを現代に当てはめると「表現主義(生)/反芸術・ダダ(死)/多様性・ シュルレアリズム(死後)」となるのが中ザワの史観だが、多様性・シュルレアリズムの時代である ポストモダン期は95年以降だから、当文献のダイアグラムでは多様性・シュルレアリズムに あたる部分が未到来のために斜線になっている。
「ヒロヤマガタとは?」はINFASパブリケーションズ の月刊誌『スタジオヴォイス』の 「ハニー・ペインティング」特集号に掲載された村上隆との対談である。奈良良知のような イラスト的なペインティングが美術として見なされるようになった動向を受けての特集で、ならば こそヒロヤマガタだろうと考えた中ザワはヒロヤマガタについての対談を実現したのだが、 編集長があまりにも嫌がったために、文字だけの記事になり掲載順位も後ろのほうに押し込まれる こととなった。これは、ヒロヤマガタという言葉が美術・芸術的な雰囲気に対する破壊力がすさまじく、 口にした瞬間にその場の空気が台無しになるというのが美術・芸術界の一般的態度としてあるからだと いう。いわゆる美術・芸術の側から忌諱されるものとして日グラや岡本太郎なども挙げられるが、 やはり破壊力に関してはヒロヤマガタが郡を抜くという。事実、ヒロヤマガタという文字をスタジオ ボイスというアート的世界に持ち込んだ罪の代償として、それまでは良好な関係を築いていた スタジオボイスからの原稿依頼がぱったり途絶えたという。なお、中ザワが「ヒロヤマガタ問題」 という言葉を初めて用いたのは秋山有徳太子との対談で、「いいネーミングだねえ!」という熱い反応 をもらったという。
そうした代償を払ってまで中ザワが提起したかったヒロヤマガタ問題とは、芸術の評価を 民主主義(あるいは市場による評価)から分離させるためのひとつの論理的な思考実験である。美術家・芸術家を自負する者たち からは否定されるものの、ヒロヤマガタはれっきとした美術家である。受注者であるイラストレーター にとって重要なのは万人に愛されるわかりやすい売れる絵を描くことである。人々の支持の多寡は イラストの価値を保障する基準になる。芸術・美術でもまた、人々の支持の多寡が作品の価値に関わってくる ことがある。しかし、もし芸術・美術でもイラストのように人々の支持の多寡が評価の基準となるならば、 ヒロヤマガタが最大の支持を取り付けている以上、論理的にいって、ヒロヤマガタは最高の芸術家・美術家である。 芸術・美術側はこの論理的帰結を、ヒロヤマガタは芸術・美術ではないという一方的主張を押し通すことによって回避しな がら、民主主義に付くのか付かないのかの問いを先送りしつづけている。
しかし中ザワはイラスト レーターから美術家に転身する際にこの問題を無視できず、美術が民主主義に立脚するかぎりは ヒロヤマガタを最上とせねばならないということを認めつつももどかしく思いつづけ、その解決を 2000年までにはしたいと常々考えていたという。その答えが原理主義の採用であり、 方法主義宣言であり、方法の諸活動である。これを受けて、実際に 方法機関誌の第二号では「ヒロヤマガタ問題」という文章を掲載しているが、この問題は「ホントは 1号にあってもよかったくらい」というほど重要な問題だったという。 中ザワは美術はもともと趣向の違いによる差別化を図るもので、平等・均質志向の 民主主義とは相容れないものと考えている。民主主義を臨機応変に取り入れることに よって美術・芸術はこの矛盾を覆い隠しているが、ヒロヤマガタこそがそうした矛盾を 明確に指し示すものだという。
対談の事後編集が村上主導で進められたこともあり、中ザワは十分に自説を語りつくせていないところがある。 対談の中で中ザワは民主主義の代替項としてまず合理主義に触れ、対談のまとめでは原理主義に 触れている。田村はこの合理主義と原理主義の関係を混同して捉えていたので、 中ザワは次のように詳しく説明した。民主主義という他律的な評価の機軸に対するものが、原理主義という 自立的な機軸であり、それは自分の信じたことをやるということである。したがって、その原理が 合理主義であったりモダニズムであったりすることもあれば、もちろんそうでないこともある。 そして、中ザワが方法において選択した原理がたまたま合理主義であった。最大の対立項は民主主義と 原理主義であり、合理主義はその中で交換可能な項目であるということになる。民主主義の議論は、 『西洋画人列伝』のルソーの項目を参照するといいと紹介された。
中ザワ自身はこのヒロヤマガタ問題をさまざまなところで提起しているようで、 たとえば椹木野衣のキュレーションによる「日本ゼロ年」展を、美術として見なされてこなかったものを 美術の側から「これも美術だ」という形で美術の文脈に引き入れていくものだったと理解しつつ、 そういうコンセプトならばまずヒロヤマガタを第一に扱うべきだろうと椹木に婉曲的に伝えたという。 しかし婉曲的すぎて、椹木は「中ザワさんはスーパーフラットになぜヒロヤマガタが入っていないのかという 問いを立てましたが……」というふうに理解したと述べた。
当文献は中ザワの文章の中ではかなり反応があったほうで、多くのひとにおもしろかったと 言われたという。また、多摩美術大学の健畠晢ゼミの学生たちが、この対談を受けて、 中ザワ・村上・中村正人らにインタビューした冊子をつくり独自の研究を進めたとのことである。
雑談として、ヒロヤマガタの破壊力がかつてほどでない今、ヒロヤマガタに相当するような 存在はいるだろうかという話になった。藤井フミヤやジミー大西につづいて会田みつをの名が出たとき、 中ザワは「会田みつを、いいよ?」と切り返した。真意をただすと、以前に東京国際フォーラムが 開催したモーツァルト展で中ザワが会田みつを美術館で仕事をしたときのおもてなしがよかったという ことだった。ちなみにそこで中ザワは松井茂・さかいれいしう・ヴァリンダと「ドン・フィガロの 魔笛ファンチトュッテ」という、モーツァルトのオペラの各作品のテキストを一定の規則に 従って読み上げるという朗読劇を行ったという。また、アールビバンの勧誘商法が 美術センスのテストを含むということから、講談社の通信制美術診断を装った勧誘商法である フェイマス・スクールの話題となり、ぜひ美学校フェイマスクールを作ろうという流れになった。 他には、中ザワが昔は天皇制に興味がなかったという一節に触れて、今は興味があるかと皆藤が 質問すると、中ザワは「今はあるよ、権威がほしいから、園遊会出たい」などと茶化して答えつつ、 「脱構築よりは天皇」という程度のものだと付け足した。むしろ権威のヘゲモニーは西洋にあり、 日本の問題はローカルなものにとどまると中ザワは考えているという。中ザワの西洋ヘゲモニーに 対する態度は今のところきっぱりと対象化されておらず、『現代美術史日本篇』でも日英併記による わずらわしさを出すという手法に留まっている。
最後に、「楽しくなりすぎないこと」は中ザワがまだヒロヤマガタの名を持ち込んでスタジオボイスとの 関係を破壊する以前にスタジオボイスのVOICEというエッセイコーナーに書いたものである。 話題は中ザワが医学生時代の精神病院での臨床経験であり、なぜこれを文献研究の対象にしたのかと問うと、「エッセイも 書くよ、ということ」とのことだった。臨床経験時に精神科の助教授が患者に対して「楽しくなりすぎないこと」 と注意をしたのだが、それを端で聞いていた中ザワは「楽しくなりすぎてはいけない!」と考えることで と余計に楽しんでしまうじゃないかと考えたという。これは方法において快感を禁じつつ、禁欲が楽しくなってしまう ことと通じているんじゃないかと中ザワは半ば強引に他の文献との関連性を持たせてくれた。こうしたエッセイの 仕事は自分の中に留まって行き場のない経験を言葉にすることでうまく処理することのできる場でもあったという。
この日は食材を前もって準備していなかったので外に食べに行くことになり、 前回行きそびれた大興で食事をすることになった。一月も終わりになってようやく 新年の挨拶を交わし、ピータン、豆腐、焼豚チャーハン、アジア風焼きそばなどで鋭気を養った。
20080213 文責:田村将理