- - - - - - - 中ザワヒデ キ文献研究 進行状況逐 次報告 - - - - - - -
【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分
には公開しておく意義があるとし、公開している
二〇〇七年十二月十二日
文献
「東京直接表現小史 ミキサー計画から秋葉原TVまで」 『美術手帖』2000年8月号 pp.90-96
「新表現主義」「シミュレーショニズム」 『美術手帖』1990年7月号 pp.80-83
「バカCGのすすめ」 『デザインの現場』1990年12月号pp.50-55
この日の文献研究は『美術手帖』2000年8月号に掲載された「東京直接表現小史 ミキサー計画から秋葉原TVまで」、 『美術手帖』1990年7月号の現代美術のキーワード特集に「新表現主義」「シミュレーショニズム」の項目で書かれた もの、そして『デザインの現場』1990年12月号に寄せられた「バカCGのすすめ」を取り扱った。それぞれの文章について 以下に順に整理していく。
「東京直接表現小史 ミキサー計画から秋葉原TVまで」は日本戦後の美術史における 路上表現の歴史を編んだものである。記事は左側が中ザワ自身の文章、右側は関連する 写真と編集部による注釈によって構成されている。80年代以降の路上表現は中ザワ自身の見聞に基づいており、 この時代の数少ない証言ともなっている。当文献についての反応でもっとも熱烈だったものとして、 ゼロ次元の研究を行っている学芸員・黒田雷児が「小史、小史、いいですねえ!」と題名の「小史」 というところをなぜかやたらと気に入っていたことを中ザワは思い返していた。
本文献を再読して、中ザワはオウムのサリン事件についての言及を忘れていたと悔やんでいた。オウム事件は 路上での表現に対する規制が強化されるきっかけであり、それ以来路上の使用が許可制になり、その結果として 予定調和に陥るようになった。芸術は犯罪である(芸術のための芸術は市民社会の道徳と必ずしも一致しない)という 持論の持ち主である中ザワは、「許可ありはダメだよね」と許可の有無による社会的意味の変化について触れながら 許可制以降の路上表現について不満を表した。中ザワは銀ブラート以降は路上表現がすぼんでいく過程であるという 見解を示し、しかし衰退の原因は単純にオウム事件のみに帰するわけではないと考えている。中ザワは 90年代初頭の美術界の熱気が93年半ばごろから弱まっていったと感じており、時期的には バブルと重なるが総じてバブルのせいでもなく、「なんとなく」そういう風潮になってきたと 述べた。
ここでやや時代を遡って60年代の路上表現と規制ならびに市民道徳の関係について話題が及んだ。 中ザワは、オリンピック時代は締め付けもなくハイレッドセンターの東京ミキサー計画も すんなり受け入れられていたが、万博の時代になると万博破壊運動の盛り上がりがゼロ次元の全員逮捕にまで 発展し自民党や経済界から日本の恥部扱いされたなどの推移を紹介した。その流れにあってオウム事件は 更なる規制と市民の警戒心を強化していったということになる。
また、記事で触れられているいくつかのプロジェクトについての思い出話に花が咲いた。 91年の「パロディ・贋作」展では異なるふたつの会場を専用シャトルバスが走っているが、 実はこのシャトルバスの中では中ザワの『近代美術史テキスト』を朗読した「近代美術史カセット」 が流れていたと回想した。朗読は主に中ザワが行い、太字になっている部分はホモフォニーで ハモることで太字感を出したという。
また、「ギンブラート」では銀座の画廊に売込みを行なうというプロジェクトの予定を中止しようとした村上が中村と口論になり、 あくまでプロジェクトの実行を要求する中村に対して村上は「銀座の画廊だったらどこでもいいんだな」 と発言して小沢剛のなすび画廊に売り込みを行い展示を行う運びとなった。これがきっかけで なすび画廊も貸し画廊としてキャリアを重ねることなったとして、中ザワはその場に居合わせたことを 楽しげに思い返していた。中ザワはこの時期の美術界について書かれている文章があまりないことに 触れ、よければ口述するから聞き取りしてくれと文献研究一同に提案した。
関連する文献については、90年代のガロでの連載に似通った主題で書かれたエッセイが 何本かあると言及されたが、号数などは正確には特定されなかった。路上表現についての 中ザワの文章はほぼ当文献のみであると言っていい。中ザワ自身の文献ではないが、 路上表現にかかわるものとして、赤瀬川源平の『東京ミキサー計画』は出版当時に十八か十九だった 青年中ザワが影響を受けた愛読書である。
つづく「新表現主義」「シミュレーショニズム」は、美術手帖の「アートの言葉」特集 で中ザワが担当した文章である。このころ中ザワは『近代美術史テキスト』が縁となって 美術手帖に「プロジェクトforBT」を連載しており、その流れで初の文章執筆の以来を美術手帖から 受けたという。そのように『近代美術史テキスト』が著述家としての中ザワを出発させたことに 触れながらも、『近代美術史テキスト』では美術と著述が融合していたが、それ以降は 美術家としての中ザワと著述家としての中ザワが分裂していると述べた。その結果として この文献研究の場が生まれたのだという。
なお、当文献は語尾がカタカナと!で彩られている 非常にハイテンションな文体で書かれているが、これは浅田彰的なニューアカ・ポストモダン 気分の影響であるという。この時代の美術界は、「芸術」という権威が自明なものと して存在していて、それを崩すことがおもしろいという空気があったという。中ザワの この時期の文体もその空気を反映しているが、97年以降の中ザワは「芸術」とモダニズムが むしろ脆弱化したという認識に立って反ポストモダンの姿勢を取るようになる。 ちなみに当文献が書かれた90年にはすでに時代遅れな文体でもあったが、 中ザワは当時「これでいこう」と考えていたらしく、今読むと恥ずかしいと述懐した。そのわりに は反応はよく、これを読んだ若い作家が名古屋から中ザワの元を訪れたり、結語の「 X−DAYは必ず来るのです!」という一節に呼応したNHK職員が「X−DAYが 来たら応援します!」と力強く本気の声援を返してきたりしたという。
なお、「シミュレーショニズム」の冒頭で森村泰昌に触れているのは、 ちょうどこのころヴェネチアから帰国したばかりの森村が東京での開いた大規模な展示を 中ザワも訪れていたことが背景にあるという。文体には後悔の残る本文献だが、森村を 「鑑賞者自身の自画像」とした見方は今でも正しいという自負があると中ザワは述べた。
「バカCGのすすめ」も同じ90年に書かれた文章であり、デザイン界に コンピューター旋風が巻き起こった時期のでもあったため、コンピューターデザイン 特集であったこの号の『デザインの現場』は当時のデザイナーたちにコンピューター 購買を決意させるきっかけにもなったという。中ザワのイラストレーターとしての 仕事も、この記事をきっかけにして多く依頼が寄せられるようになったという。 「バカCGのすすめ」というタイトルは、当時NHKの番組に出演した中ザワがバカCGを 「バカでもチョンでも描ける」と発言した折に「バカCGのすすめ」と言い直すよう 職員から注意を受けた経験から取ってきているという。
当文献に併載されている写真では上半身裸の中ザワがパソコンモニター内の CG画のガブリエル・デストレ姉妹の片乳をつまんでいるが、この写真には 次のような経緯がある。デザインの現場ということなので中ザワは適当に作業場の写真を 撮ろうとしたものの、編集者が「ダメです、なにかやってください、できるはずです、 パソコンで」となぜか強く確信していたためにポラロイドで写真と絵をスキャンして モニター内のCGを製作し、ようやく冒頭の写真の撮影がなされた。なお、この 写真はよく見ると作業台の角が中ザワの腹部に軽く突き刺さっており、イラストレーター の木野鳥乎が「机おなかに刺さってるけど痛くないの?」などと心配したという。この 写真のせいで、90年代前半には中ザワはしばしば上半身裸になって写真を撮られること が多くなったらしく、当時創刊されたGURUという雑誌の社内広告がなぜか中ザワの 上半身ヌードだったこともあったという。
当文献は後に引き継がれる中ザワの「ヘタウマ・テクノ・バカCGのトライアングル」 モデルを初めて表したものである。「バカCG」という言葉は伊藤ガビンが使い始めたものだが、中ザワの用法は それとやや違っており注意が必要である。伊藤ガビンの「バカCG」は設定ミスや エラーがコンピューターによって律儀に実行されてしまったときのどうしようもない感じ (「ヒューララ感覚」)を積極的に楽しむものだった。中ザワの「バカCG」は設定ミスや エラーの有無ではなく、当時「CG」という言葉に取り巻いていた権威性を「バカ」で相殺して 雑貨のレベルに引き落とそうというものだった。CGの雑貨化はTV番組・ウゴウゴルーガに 象徴されているという。中ザワもウゴウゴルーガの立ち上げ期に協力を打診されていたが、 海外に行く直前だったために返事を延期したため立ち消えとなった。にもかかわらず その年の年賀状に「ウゴウゴルーガ見てますよ!」とよく書かれたものだと中ザワは回想した。
また、当文献には「日本ロックの悪臭」という題の中ザワのCG作品が掲載されているが、 中ザワいわく「一番おもしろい作品なのに歴史化されていない」ので、ここで作品の背景や経緯を 言語化しておきたい。「日本ロックの悪臭」は大ボケツ展を終えた中ザワがイラスト界に デビューするきっかけになった作品で、隔月誌『イラストレーション』の誌上公募展であ るザ・チョイスの入選作である。ザ・チョイスの予告で審査員であったスージー甘金の 「日本ロックの逆襲」という作品が掲載されているのを見た中ザワがその作品をパロディにして 投稿したものが「日本ロックの悪臭」である。これをきっかけに中ザワは「ハマルコン91」、 「パロディ・贋作 第五回 トウキョウ・イラストレータラーズ・ソソサエアエティ」の二つ の展示にバカCG作品を出展することとなった(いずれの展示も、「ファルマコン」「 第一回東京イラストレーターズソサエティ」というまじめなイラスト展のパロディで、「第五回」 なのは第五次ミキサー計画のもじりになっている)。その後、パロディ元の東京イラストレーターズ ソサエティの会員推挙によって中ザワも会員に選ばれてしまい、第二回東京イラストレーターズ ソサエティのパンフレット表紙のCG作品を手がけることになった(50頁のCGがその作品)。
この時期の中ザワは反・著作権の態度を取りながらパロディ作品を製作していた。当文献 にも吉田戦車「伝染るんです」のパロディCGである「伝染すんです」を書き下ろしで掲載している が、当時は著作権関連の制度や対応が散漫だったこともあり訴えなどはなかったという。中ザワ 自身は、世界をハードディスクと捉えてそこに作品をデータとして書き込むために自作の権利を すべて開放したいとも考えているが、現在コマーシャルギャラリー所属であることや、悪意ある 転用よりもむしろ善意の転用が作家性に与える被害が大きいなどの事情から著作権に対する態度を 完全には決めかねていると述べた。
なお、当文献の著者紹介には単行本が大和書房から「刊行予定」になっているが、 この出版は立ち消えになっている。
関連する文献は、上述の伊藤ガビンと中ザワ自身の「バカCG」の対比を論じている 「その後のバカCG」がある。
この日は年内最後の集まりということで盛大な鍋をやることにした。あん肝やタラなどの 海鮮物を白菜や豆腐といっしょに鍋に突っ込み、漬物をつまみつつ焼酎を啜りビールを注ぎ込んだ。 報告書にうまそうな食事の文言を並べ立てることで未来の参加者を誘惑しようというのが毎回 献立を報告していることの思惑なのだが、今のところ思惑は思惑のままにとどまっている。
20080212 文責:田村将理