- - - - - - - 中ザワヒデ キ文献研究 進行状況逐 次報告 - - - - - - -
【留意事項】
本報告について中ザワヒデキは、事実誤認がさまざまなレベルで多々あることを了承の上で読んでいただく分
には公開しておく意義があるとし、公開している
二〇〇七年十一月二十八日
文献
「還元主義から新表現主義へ」『美術手帖』pp.171-177
『近代美術史テキスト』、トムズボックス
この日の文献研究の対象は「還元主義から新表現主義へ」で、それに重複するテーマを扱ったものとして 『近代美術史テキスト』を併読した。それぞれのテキストの執筆にいたる経緯や内容についての議論などを、 「還元主義から新表現主義へ」『近代美術史テキスト』の順に整理する。
美術手帖2005年*月号に執筆された「還元主義から新表現主義へ」は、1905年に 創設された美術出版社の100周年記念の誌上企画の一部である。戦前と戦後の芸術史を一定の 期間で区切りながらそれぞれの時代をひとりの執筆者が担当するもので、美術家として執筆しているのは 中ザワだけである。中ザワはこの1970-1985という期間が「美術評論家が書きたらがない時期」として捉えて おり、そうした事情で自分に原稿依頼が来たのではないかと理解している。その理由として、 70年代に活動していた作家は現在も現役でしかも地位を固めている場合が多く作家の選別に様々な緊張が 絡むこと、そして80年代前半が多くの評論家にとって美術史の空白と見なされていることなども挙げられた。 一方で、中ザワの循環史観ではこの80年代前半はきわめて重要な位置を担っている。
また、中ザワに依頼が来たことのもうひとつの経路として、2004年に東京都現代美術館からMOT アニュアルのために「美術史の本を作品として書く」ように依頼されていたということも関係あるのでは と中ザワから言及された。中ザワはその依頼を躊躇しつつも引き受け、そのときは完成させず出品 を見送っているが、後に執筆を開始している。その中で、この1970-1985という時代をどう書くか迷っていた ところに、美術手帖からその時代についての執筆依頼があり「じゃあ、やってみよう」と引き受けた と語った。なお、この執筆中の美術史は、2007年12月27日から渋谷文化村で開催される中ザワの展示で 公開されるもので、その後に予定されているニューヨークでの展示にも用いられるものだという。 この文献研究の前日もその執筆に取り掛かっていたと中ザワは語った。
「還元主義から新表現主義へ」もそうした多忙さの中で書かれたテキストである。依頼を受けた 中ザワは、5/28に名古屋のギャラリーセラーでの展示が終わるとそのままアーチスト・イン・レジデンスが 予定されていた金沢に直行して執筆を開始することとなった。しかし、荷物一式を車に積み人気のない夜の 北陸自動車道をひとり運転する中ザワは、突如バックミラーに火花が映るという異常事態に「まずい!」と 思い「自分が光ってるに違いない!」などと驚愕したという。ごんごんと音を立てながら後方に火花を発する 車のスピードを落としながら高速道路を降りてガソリンスタンドに向かった中ザワは、ようやくその異常事態 が取れかけのマフラーによるものだということを確認した。そうした不慮の事態を越えてようやく金沢に着いた 中ザワは、タイルを用いた作品を製作する傍ら、執筆もレジデンスの一環として見せようと目論みレジデンス先 のオープンスタジオに資料をあえて雑然としたかんじで積み上げてみたという。しかし、その意図はレジデンス 記録担当の南なつには伝わらず、レジデンスの映像記録の撮影にあたってもその雑然さを演出したそのスタジオ は敢えて映されなかったとのことであった。こうしたあわただしさの中で書かれた当文献は、 それまでに下調べも済んである程度書き始められてはいたものの、締め切りの6/5まで は一週間程度しかなく、中ザワ自身は再読して「練れてない」という印象を確かめている(20080115加筆: なお、下調べや草稿はそれ以前から始められていたので、必ずしも一週間ともいえない)。
中ザワは、当文献は中ザワの循環史観を初めて美術専門誌上で大々的に提示したものだと紹介した。 また、中ザワは美共闘を還元主義として位置づけていることに自身の史観の特色を見出している。 なお、これに先行する循環史観関係の文献には、Gomes(アクロス出版)において図式込みで紹介されているものがある。 さらにそれに先立って、中ザワが製作に関わっていた90年代前半のフジテレビの深夜番組「宣誓」 の楽屋裏でのカイコツチエとの会話から「歴史は繰り返す」という発想に至り、そこで提案された循環史観が そのまま「宣誓」の特番として放映されたという経緯がある。
「還元主義から新表現主義」を再読した中ザワは、もし同じテーマで 改めて書き直すとすれば、絵画の復権というテーマ部分をより充実させて立体・彫刻とのバランスを 取るだろうと述べた。絵画への言及が少なかった理由として、中ザワが美術史を書く上で 参照している一般に刊行されている美術史ではこの時代の絵画についての言及が少ないことが挙げられた。 また、執筆当時は文献を段ボールに詰めて山奥に保管していたために資料へのアクセスが悪かったことも 言及された。現在では自宅に設置された本棚へと着々と資料の救済が進行中であるとのことであった。 また、一点訂正が必要な箇所がある。超少女のくだりで触れられているギャラリーKが 文中では「銀座」になっているが、実際には「赤坂」である。これは、 当文献がきっかけになって2007年七月末にすみれの天窓にて二人展を開くことになった 前本彰子にそのとき指摘されたとのことである。また、当文献の執筆に当たっては 美術手帖の「不思議ちゃんなかんじだけどすごく優秀な人」がいくつか筆を入れているのでその箇所を特定しておく。 中ザワ自身は文章に「/」を用いないが、「ニュー・ペインティング/新表現主義」「購入/紹介」のように スラッシュがはさまれている箇所は前半が中ザワ、後半が編集部である。また、西部資本の事実関係についてのデータ と、レーガン・サッチャー・中曽根についての言及のうちサッチャー・中曽根は編集部の加筆である。
それから冒頭で触れられている聖戦芸術、万博芸術、そして 広告やグラフィックに対する美術界からのタブー的な見方についての話となった。中ザワによれば グラフィック系統がハイアートの文脈で無視されることは批評の領分でも起きており、日グラ系統 の作品について好意的な批評として中ザワが当文献で紹介している伊藤順二の『現在美術』は グラフィック系統や応用美術の人々の間で広く読まれて当時22才の中ザワ自身も影響を受けたが、今日芸術の 文脈ではなかなか言及されないのではないかと述べた。また、中ザワはもともと グラフィック展から出発しイラストレーターとして活動してから美術家へと転身しているが、そうした タブーは美術家として美術界に入ってからようやく感じるようになったという。事実、美術家として 活動を始めた当初はバカCGなどのキャリアを敢えて積極的に出さずに過ごし、<方法>で一定の印象を 固めてからようやくそうしたキャリアを躊躇なく出せるようになったという。 ハイアートの側からタブーとして排除されるものに対する中ザワの見解は、 たとえば<方法>機関誌第二号やSTUDIO VOICEでの村上隆との対談なども参照することができる。
グラフィック展については中ザワ自身が出品者であり受賞者であることから様々な思い出話が 飛び出した。中ザワは十代の終わりくらいから美術館を足を運ぶようになったが、日展や洋画団体展などを 見て(僕が作品を出すのは)「ここではない!」と思っていたという。大学のサークル内だけで完結することを よしとしなかった青年中ザワは先輩の口ぞえもあって画廊喫茶などで展示を行ったが、展示期間中に 「なにか反応ありました?」と店主に聞くと「な、なにか反応ありました!?」となぜかオウム返しに聞き返されて やはり「ここではない!」と思ったとのことである。それから銀座の画廊を回って吉澤美香やその周辺の作家の 展示を見て「ここなのかな」とやや心を揺るがせ、他にもポストもの派の難解な展示なども見たが当時はまだ ピンとこなかったという。そんな青年中ザワがピンときたのが日本グラフィック展であった。アールビバンに 平積みにされていた第三回日グラ展のパンフレットを見てついに「ここだ!」という感覚をものにし、その 出展手続きの際に現在に至る「中ザワヒデキ」という作家アイデンティティを獲得する(詳細は二○○七年十月三十一日の報告を 参照)。
中ザワはグラフィック展に二度出展している。初回は飛行機を画いた作品で入選し、これをきっかけに 仕事を請けたこともあるという。この入選作品は、宣伝会議から出版されている『パルコの宣伝戦略』 に収録されているグラフィック展の会場写真で見ることもできる。翌年は朝顔を画いた作品で佳作(入選より上) を受賞している。日グラ展の出品手続きではパルコの前に 長蛇の列ができるが、初回は地元の千葉パルコにて、翌年は「本場」の渋谷パルコにて出品手続きを 行っている。また、渋谷での出品の場合は締め切りが一日遅いということもその理由であった。 83−84年にはグラフィック展で知り合った作家とグループ展を開催しているが、 その場所に吉澤美香と縁の深い茅場町クルクルを選んでいる。
吉澤美香は中ザワの美術史にとって重要な位置にある作家である。中ザワは、当文献の中で インスタレーションによって生じた分断を書こうとしていると述べた。 中ザワの循環史観ではひとつひとつのサイクルは連続体だが、サイクルとサイクルの間には断絶がある。 そして、もの派からポストもの派を包括するひとつのサイクルは、ジャンルとしての「インスタレーション」 の登場によってサイクルの終焉という断絶を迎えていると見ている。その意味で吉澤美香・前本彰子をポスト もの派の文脈の中で語ろうとして いる峯村や千葉の史観には賛同していない。中ザワによれば、70年代のインスタレーションは立体・もの・ 彫刻の延長としての場の重視であり(カール・アンドレの三段階論「場としての彫刻」)、 80年代のインスタレーションは「インスタレーション」というジャンルがあることが前提とする ひとつの様式であって立体・もの・彫刻を必ずしもその起点としない。この意味でポストもの派と 「インスタレーション」は共に場を重視しながらも断絶があり、その断絶から始まる新たなサイクルが あると見ている。
また、グラフィック系統のアート同様に美術史から排除されているものとして 言及されているアンフォルメル旋風についての話題となった。中ザワがアンフォルメルが否定的に 語られているという印象を築いたのは日本美術史を読んでのことである。中ザワは「日本美術史は 三回しかきちんと書かれていない」と述べて、その三つに針生一朗『戦後美術盛衰史』、千葉茂夫 『現代美術逸脱史』、サワラギノイ『日本・現代・美術』を挙げ、これらのいずれもが アンフォルメルに対して否定的であると紹介した。中ザワ自身もそうした視点を踏襲しているが、 一方でアンフォルメルについて肯定的に語りたいという気持ちもあるという。これは、模倣者の 発生という形で表現された無数の若い表現者を突き動かす何かがそこにあるからであり、 そうしたエネルギーを美術史として記述することも必要であるとして当文献はひとまず筆を置いている。
『近代美術史テキスト』は大学などで語られる美術史からは排除される西部系文化を美術の 文脈に置くという意図から書かれており、中ザワは『近代美術史テキスト』の最後の二章が西部系文化 を美術史として描いた初めの文章として自負している。ジェフ・クーンズとシミュレーショニズムで 終わらせずに、そこにイラストレーションとへた上手を接続することに中ザワ史観の特色があり、 その最後の二章にこそ重要性があるにもかかわらずなかなか理解されずにジレンマを覚えることもあると いう(例外として、滋賀県立美術館「コピーの時代」に収録された文章)。
こうした美術史への真剣な 関心を含んだ『現代美術史テキスト』だが、その執筆の直接的きっかけは実ははるかに安易である。中ザワは その経緯を次のように説明した。当時マンガの同人誌に 四コママンガを描く依頼を受けていた中ザワは、「フォンタナの絵は四コママンガみたいなもんだ」 という発想からフォンタナを四コママンガで表す着想を得た(どのように四コマ化されているかは 『近代美術史テキスト』を参照)。しかし、その着想を実現するには ページを切り裂かねばならず、その同人誌では裏に他の絵があるからという理由で実現を見送る。 ちょうどその頃にトムズボックスの土居アキフミから何でもいいから自費出版本をという形で 依頼が来たので、それを機としてフォンタナの四コマを実現する運びとなった。フォンタナを扱いたかった ので美術史の教科書という様式を採択し、どうせなら文章もそれっぽい方がいいだろうということで テキスト部分の執筆に取り掛かったという。そのテキスト部分も、フォンタナをどうにか右側の ページにもってくるために構成されているとのことである。そうした冗談めいた経緯で書かれている にもかかわらず、今日に至るまで『近代美術史テキスト』は中ザワへの執筆依頼のきっかけとして なり続けており、「美術史、本業じゃないのにね」と中ザワは嘆息した。
それから『近代美術史テキスト』の装丁についての話題となった。もともとはB6サイズで 出力することを計画してB6用紙での制作が開始されたが、ためしに縮小コピーをとってみると そちらの方が見栄えがよかったので81%縮小のA6サイズが採択されたという。 また、フォンタナの絵から4〜5頁にわたって入れられている切り目は、出版当時は中ザワのアシスタント (「中ザワヒデキの五〇〇〇文字」でのワープロ発案の経緯で触れられているのと当人物)によって 入れられていたが、今ではほとんど中ザワ自身が一冊一冊精魂込めてカッターで切り込みを入れているとの ことである。また、切り込みは4〜5頁に渡るのが正しいが、たまにトムズボックスの土井アキフミが アルバイトにそのことを伝え忘れて下敷きを使ってしまった当該ページしか切り目のないものも あるという。また、奥付けは自分でその都度書き直しているのかと皆藤が問うと、そこだけはトムズボックスの 土井アキフミが逐一書き直していると中ザワは答えた。全編中ザワの手描きによる『近代美術史テキスト』 だが、奥付けだけはその例に漏れることが明らかになった。
『近代美術史テキスト』では、美術制度が確固としてあるアメリカではシミュレーショニズムが 美術の内部で起きたのに対して、日本では美術制度が弱いために新表現主義の波が美術の外部で起きたという 見解が述べられている。この見解は中ザワいわく「マルクスといっしょ」で、革命は資本主義が強いところではなく むしろ一番弱いところで起きるというマルクス理論のように、ポストモダンという革命は美術制度が弱い ところで起きる、とすればその場は日本ではないかという予想が反映されているという。 美術が非美術となっていく過程が日本で起きるだろうという予感と共に書かれた『近代美術史テキスト』は 美術が不要になるのが正しいという当時の中ザワの態度を反映している。しかし、そのようにポストモダン に共感していた当時と異なり、現在では中ザワはモダニズムを引き受けそこで生きることにしたという。 ここで中ザワは「ポストモダニズムは言葉を失っていく世界で、発話者としてすでに喋っている以上はやはり モダニズムを生きるしかない」と発言しているが、どういう意味で言っているのかと田村が質すと、 より詳しい見解は中ザワがカナダでレジデンス中に<方法>機関紙に書いた文章を参照するのがよいとされた。 モダニズム/ポストモダニズムは発話者によってまったく異なる意味で使われることの多い言葉であり、 たとえば中ザワは還元主義はモダニズムだと理解しているが、当の還元主義者は自らを反モダニズムと 見なしていることが多いことを挙げた。いずれにせよ、現在中ザワは自らをモダニストとして 位置づけており、「モダニストは自分しかいないんじゃないか」と発言している。
予定の時間を一時間ほど過ぎて文献研究を終わらせ、食事の準備に取り掛かった。この日の献立は 水炊きとかぼちゃの煮付けである。特にかぼちゃの煮つけは、かぼちゃ嫌いの半田にかぼちゃの真価を知らしめる という意気込みで皆藤が自信をもって用意したもので、皆藤の料理人としてのプライドがかかっていた。 皆藤は研ぎ石を持参して包丁を磨くことから始めるという気合の入れようで、実においしいかぼちゃの煮つけが できあがったものの、やはり苦手なものには手が伸びないのが人の情であった。かくして三人がかりで半ば脅迫的に 嫌がる半田にほぼ十年ぶりのかぼちゃを口にさせることになったが、「食べられなくもない」という消極的な反応に料理人 の誇りを一層刺激された皆藤は「次こそは」と再戦を誓うこととなった。
20071211 文責:田村将理