此岸と彼岸


 「景観形成」は、抽象的な作業である。自然を相手にしているように見えて、実のところ行われる作業の殆どは、それに対するところの人間たち自身の精神分析のようなところがある。  「乞はんに従う」という言葉がある。ここで乞うている主体は、見ている人間ではなく、見られるところの対象である自然である。無論、石が意志を持って、人に向かって自ら「こうして欲しい」と何かを乞うはずはない。にもかかわらず、『作庭記』に記されている通り、その石はわれわれに向かって何かを乞う。
 その「乞はん」に答える(従っている)ところの主体も、けれど、また人間ではない。石自身も含め、本来は無機物であるはずの自然物がそれ(主体的)にまた答えるというのである。
 残された最古の指南書がこう教えるように、野筋にせよ、築山にせよ、遣り水にせよ、庭は、こうした一連の応答関係として形成される。問いとそれに対する答え、その応答関係が見事に完結しえたとき、それを実際に見ているはずの人間━━主体の位置は消去される。景観自らが問い景観自らがそれに答える。その応答関係によって、主体はあらかじめ代理、代行されている。つまるところ人は庭の内に、自らが何を欲する存在であり、そしてそれがいかに全うされるか、前もって答えられているのを見出すのである。
 よって『洋の東西を問わず庭園には、楽園の姿が表わされている』という定言も、また了解できないことはない。けれど庭園に求められるものが、こうして本来は始まりと終わりに引き裂かれ、無限に拡散していく他ない存在━━つきつめれば世界の地盤を、その始まりと終わりを円環的に結びつけることでなんとか完結させようとすることだったとするなら、その完結性は楽園とだけ結びつくものではないはずだった。
 たとえば、アルカディア(理想郷)に墓があるという不可思議な光景を描いたニコラ・プッサンの『われもまたアルカディアにありき』。その場違いな墓には「われもまたアルカディアにありき」と銘が刻まれており、すなわち「アルカディアにも、また、われ(墓━死)はある」とこの光景の奇妙さに、その墓自らが注釈を加えている格好になっている。重要なのはこの自己言及的なループによって示されるのが、結局のところ、そこ(アルカディア)には誰の死でもない、ただ一般化された死だけがあり、個人的な死は不在になってしまうという事態である。それは見える光景すべてに対して付された墓標であって、つまりはアルカディア(理想郷)全体が巨大な墓の内部だったということにもなる。墓の中に、自己と他者の区分も、生と死の区分も、もはや生じようはずもないのは当然である。

 その理念を追わずとも、景観形成の困難さが、自然という可変的な存在を扱わなければならないことにあることは、よく言われる事柄である。自然の可変性とはもちろん、そこで扱うべき対象が時間的にも空間的にも境界づけられず、原理的に無限に拡張してしまう性質を持つということである。にもかかわらず、その変化しつづけ、形を失い流出していくばかりの時間と空間に枠を与え境界を与えることができなければ、たとえば庭園は庭園として、全うすることはできない。景観形成で図られるのは、つまりは時間と空間に孕まれた延長(ひろがり)という観念を無効にする術である。
 射影幾何学に「配景的対応」という概念がある。よく知られているように射影幾何学はその起源である透視図法と異なって、そこに外界はいっさい存在しない。扱われるのはあくまでも図形間の関係だけであって、たとえば、そこで二つの図形を構成する要素の各々が対応しているとき、その二つの図形の関係が「配景的対応」と呼ばれる。正確には、この二つが互いにそれぞれお互いを変換操作された結果として同一の性質を保持していることをそう呼ぶ。射影幾何学において、たとえば視点とは、このように確認される「配景的対応」つまりは変換操作の後から見いだされる効果であって、つきつめると空間や時間という観念も同様、あくまでも、それぞれの図形間に見いだされる「配景的対応」━━変換操作の後から発生する効果以上のものではなかった。射影幾何に距離も拡がり(面積、体積)も存在はしない。
 伝統的な借景や縮景という技法も、単なる模倣の術、見立ての術と見てしまうなら面白くはない。ではなく、これらはその名の通り、遠くにあるものを近くに寄せることで距離を破棄する術であり、いまこの場所をどこかいつかの場所に転位させるという意味において時間を折り畳む術だと考えるべきである。この変換操作━━文字通りに、その配景的対応が維持される限りにおいて、多少の時間的な変化や、それによる空間的な変形にも動じない、一定の景観が確保されうる。つまり借景も縮景も、景観としての本質は二つ以上の場を結びつけられていることにあり、仮にその結びつきのうちの1項(たとえば、それが借りているところの風景)が変化しても、その同一性は保持されうる、きわめて関数的な構造と見るべきだろう

 ひまわり舞台で考慮されたのは、以下のような事柄である。
 まず、ここは河川敷であり、残土が残す工事は出来ない(河川敷内の容積の変更は出来ない)という規定があった。従って計画は敷地を平面としてではなく、文字通り厚みを持ち容積をもった量塊として扱わなければならない。
 まず既存レベルーー250、6mをそのまま残す箇所を規定する平面図を作成する。これをテンプレートとして敷地に投影し、その周縁のみを掘削し、その残土を、そのまま築山にして基本水平面上に被せる。建築に当たる部分はあくまでも、このテンプレート状の平面でしかなく、実際の操作は与えられた量塊から彫刻を掘り出す作業にはるかに近い。
 基本平面(テンプレート)は正円と楕円の二つのリング状の舞台━━島が連結されたものである。正円の島はこの谷に内接する円(半径120m)と共通の中心を持ち、楕円状の島はこの谷を上下川が自然状態で放流したとき、取るだろう流れの軸線に沿っている(つまり、その流れに舳先を向ける船に準えられる)。つまり二つの島はそれぞれ周囲の景観と異なる幾何学的関係を形成し、ゆえに二つの島は同一平面にありながら、位相が異なるもののように現われる。いわば彼岸と此岸、二つの世界の連結が、この二つの舞台の連結に縮約されている。
 築山や野筋は伝統に従って、周囲の自然を写し、それと呼応するように図られている。植生はなるべく、雑草と呼ばれるような草も含んで、在来種を使うことを旨とし、住民たちの希望によって果実も多く植えられた。遊歩道として確保されたテンプレート平面の二つの舞台は、その周囲で時の推移とともに変化していく自然の可変性━━侵食堆積し変貌していくだろう周囲の景観、成育する植生など━━を、反映し構造化するための関数(パラメーター)として働く。
 そもそもこの舞台の背景には墓地があり、そこに込められた過ぎさった時と新たに(楽園として)生まれ変っていこうとする土地との有機的な連関を作りだすことこそが第一の課題だった。舞台はいつも変らず、周囲に微笑む一つの顔━━無限の持続から切り取られた一つの断面である。