青林堂「ガロ」誌1994年8月号No.355掲載
連載「中ザワヒデキ以後」第4回
ROM/RAM生死論
●何を今さら世の中すべてコピー
はじめに断っときますが何を今さら、世の中すべてコピーなのだ。そんな事、十年以上も前の糸井重里氏の本のタイトルにもありますから、ホント、何を今さらなのですが、つい、この連載のように「○○論」と大上段に構えちゃうと、本当は「○○論」と銘打つこと自体コピーでしかないつもりなのに、読む人も、そしてもっとマズイ事に私自身でさえ、つい本当に「○○論」なる論理をぶちかましてるような気がして、イカンのです。(前回「幸福論」はどうもその点が失敗だったようじゃ。)だから今回は自分に言い聞かせるための意味も込めて最初に「世の中すべてコピー」と断っとくのである。
そんでついですると、おそらく、真に新しいことなんてなかなか無いのです。ただ同じ事をどうコピー化するか、そこだけでわれわれは、いや、厳密には私は新しい「キブン」になったり、その言葉の内容ではなくゴロやヒビキに酔ってみたり、「鬼の首を取ったような」気になったりするのです。(例。私は別に好きな言葉ではないが、「ヴァーチュアル・リアリティ」。シュールレアリスムとほとんど内容は変わらないハズなのに、ほんのちょっとの差異と語のヒビキの違いで全然違ったものをわれわれは印象しがち。)で、同じ言葉のヒビキが他人をもそういうキブンにさせたりすると、言葉が、いや、コピーが権力を奮うようになる。なんて話は、どこに帰結するでもなく、ただ言ってみただけですが。そして、今回のお題の「ROM・RAM生死論」も、この前振りとはまったく関係なく、たまたま書きたいことをあれこれ思い出していたら今回はそのお題中心になりそうだったから。
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●そこでROMとは?RAMとは?
ソシュール言うところのラングがROMであり、パロールがRAMに当たる。なんて事は誰も言ってないけどきっとそうだと思います。あるいはいがらしみきお氏は「IMONを創る」の中でROMは歴史であり、RAMは記憶であるとゆ言い方をしてます。あるいはすべての生物はRAMだとも。また、宗教は「自我をROM化しようとするもの」ではないかとも。真にROMとなった自我はすでに苦悩しないはずだとゆ理由で。なるほど。
みたいな話をする前に、パソコン用語でROMとは?RAMとは? 決してマッキントッシュ初心者ではないウチの会社の取締役でさえ、何度説明しても理解しないROMとRAM。ROMとは Read Only Memory すなわち読み込み専門の記憶の事。RAMとは Random Access Memory すなわちどこからでも読み込んだり書き変えたり消したりできる記憶の事。具体的には私はROMとは図書館とか電話帳の事であるとイメージし、RAMとは脳の一時記憶や、たんなるアタマの良さの事だとイメージしてます。電話帳というROMからだれかの電話番号を一時的に脳に記憶させて(RAM化)電話をかけ、かけ終わってしばらくしたり、寝ちゃったりすると忘れちゃう記憶、それがRAM。あるいは聖徳太子のようにいっぺんに何人もの相談を引き受けられるような能力、パソコン用語で言うマルチタスク状態とゆのも、RAM容量に大きく依存する事なのです。脳には寝ても消えないROMの部分も同居してて、たとえば、とっても頭がよくって回転が速くて機転がきくのだけど、すぐにモノ忘れしちゃってなんにも覚えてくれない人のアタマはRAM大にしてROM小とゆワケ。
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●ROMが壊れちゃった人の話。
んで余談ですが、テレビで(私は見てなかったんだけど)病気でROMが壊れちゃった人の例をやってたらしい。可哀想なことにお母さんがいなくなった悲しみのショックでそういう状態になってしまったらしく、毎朝目覚めたときは「母がいなくなってとっても悲しい」状態(彼のROMはそこで停止したままになっていて、ROMの更新がなされなくなってしまってる)から一日が始まるのだそうです。そして、その日にやってる事をすべて忘れてしまうため、つねにポストイットに書き留めながら生活をしなければ、ろくにお湯も涌かせない状態とのこと(やかんに火をかけた事を、他の事をやってるうちにすっかり忘れてしまう)。つまり本来脳が負担するべきROMを手とポストイットで代用してるわけ。そして一日の最後にはその日にやったこと等を全部「翌朝の自分」のために書き留めて(つまりその日のRAMをすべて手作業でROM化して)から寝て、翌朝再びとっても悲しい感情とともに目覚め、昨晩書き留めたノート(ROM)を読んで(RAM化)、自我のつじつまが合うようにするとゆ、大変な毎日。
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●ROM化と幽霊の関係。
で、さきほどのいがらしみきお氏の「すべての生物はRAMだ」あたりの話なのだけど、なにゆえわれわれは頼まれてもないのに芸術作品を残しちゃったりするのかというと、そのRAMをROM化したいが故ではないでしょうか? その欲求がどこに起因するのかというと、おそらく死ぬのがあまりにつらい事だから。死ぬという事はRAMが止まっちゃう事。そしてRAMが止まっちゃっても、もしそのRAMの内容がROMにさえ残っていれば、そこをモトにあらたなRAMとして再生できるかもしれないわけなのです。
たとえば先程のROMが壊れちゃった人、なにも夜寝る前にポストイット作業しなくてもいいのかもしれない。むしろ彼の場合には生きてる事自体喜びより苦しみの方が多いかもしれないのだから。しかし、それでも彼は必ず夜寝る前にポストイット作業をやり遂げるのは、絶対に死にたくないからではないでしょうか。
多分、その日がどんなにつらかった一日であれ、忘却してしまってまるで意味のなくなる(=死ぬ)事の方がよっぽど恐ろしい事なのです。なぜそんなに人間は意味を求め、生を求めるのか、それはわかりません。ただとにかくRAMはROM化されずに終わってしまってはならないというテーゼだけがあるのでしょう。死に際の人に、「何か言い残すことは?」と聞くのはまさしくそれ。ROM化されずに終わったRAMは「往生しにきれない」「化けて出る」と信じられずにはいられなかったのです。
そんでもう一つ蛇足。つげ氏「ゲンセンカン主人」中の有名なセリフ、「だって前世がなかったら、私たちはまるで、幽霊ではありませんか」。このセリフのおばあさんにとっては前世こそROMとゆわけです。ROMなしの、まるで意味のないRAMなんて幽霊ではありませんか! ROMこそ意味。
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●芸術なんて死ぬため。
で、これはまた逆の事態をも引き起こすわけで、たとえば作品を完成させた日に自ら絶命するエレファントマンとはそういう映画だったと記憶してるのですが、RAMのROM化が完了した暁には人は死んでもいいと思うのでしょう。芸術活動なんて死ぬための所作だったのだ。(少なくとも、一部のタイプの芸術は。)よく天才芸術家の自殺が過労という言葉で処理されてしまうのを見ますが、なぜきちんと「RAMのROM化」を完了したからとはっきり言ってあげないのでしょう。その人が死んだ意味を台無しにする気か? ま、そうは言わないのが社会のルールとゆのもわかります。
天才の自殺はさておき、RAMのROM化をそのまま呈示する究極タイプの芸術があります。河原温氏のデートペインティングとか、「私は今日誰、誰、誰と会った」とだけ記した作品とかがそれ。みなRAMのROM化、あるいは生きてることのデータ化の必然から生まれた作品だと思うのです。いわゆるデートペインティングの作品は、単にその日の日付がキャンバスに描かれてあるだけでなく、作品一つ一つがその日の新聞を裏打ちした箱に入れられていて、RAMのROM化という文脈がよりはっきり打ち出されてます。
芸術じゃなくても、いとうせいこう氏「ノーライフキング」に出てくる最終戦争の前日に自己をデータ化する少年も、RAMをROM化する河原温氏の子孫に当たるわけです(みたいな事は以前「想う芸術」で書きましたが)。あるいは、ここで並列に並べてしまうのはいささか問題ではありますが、女性にとっての子供はかなりRAMのROM化に当たるものなのかもしれません。「子を産んで息絶える」女性の話は古今東西の文学ネタに限りなくあるし、あるいは「処女を死刑にしてはならない」というルールのため、わざわざ娼家に連れてってから処刑するという中世の話もあります。
脱線ですが生物学方面の話ではROMとはその種族の遺伝子プールに当たるもので、ではRAMとはなんだろう? 獲得形質が遺伝するものであれば、それこそRAMなのですが、(狭義の)獲得形質は遺伝しません。しかし獲得形質というものを拡大解釈して、たとえば自然淘汰が遺伝子プールに与える影響を獲得形質と呼ぶ事ができるのであれば、たしかにそれはRAMなのです。ほらラング(辞書的意味の国語)とパロール(話し手のしゃべくり)の関係にやっぱ似てる。
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●別に結論は無いんだけども。
なんて、書き連ねてはいるのだが、この話、結論があるわけでもなく、何のために書いてるかというと何かを言いたいためでも、何かを言って人を説得したいためでもなく、そーですね、敢えて言えば都合良すぎるけど、今考えてる事(RAM)を取りあえずROM(ここではガロ)に残しときたいから? 連載名も一応「〜以後」とROMを意識したものにはなっておる。
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●補足1・RAM親和力(鳴くよウグイス平安京)
ROM、RAMの事をよく考えるようになったのはそういえばきっかけがありました。昨年、実現しなかったけどRAMに、より食い込むための芸術というものを考えていたのです。ROM、RAMといってもそんなに厳密に分けられるものではなく、ROMの中でもRAM寄りな部分とかあるのですが、そこに食い込みたい芸術のあり方ってのがあるんじゃないか、と。
たとえば、まずはまっとうな芸術の話ですがキャンバスに絵を描いて、モナリザだったとします。キャンバスはどうしようもなくROMですから、そのままでは意味を持たない。誰かに見られて、すなわち眼球から視神経を通ってその人のRAMに移行してはじめて、意味を持つのです。(ダヴィンチの頭の中のRAMがキャンバス上のモナリザというROMに置換され、それがそれを見た鑑賞者の頭の中で再びRAMとなってはじめて意味が生成するのです。埋もれてた名画は、埋もれてる限り名画でもなんでもありません。)モナリザに力があるとすれば、モナリザを見た人の脳の中でそれが鮮烈な記憶となって残るから。つまり、凡百とある美術作品の中で、「RAM親和力」が高いものこそが「素晴らしい」と形容されているのです。実は芸術家にとっての真のキャンバスは人々の頭のRAMだったのだ。これが芸術の正攻法。
さて私が昨年考えていた事とは、そこを逆手にとった芸術のウラワザで、芸術性が高いが故ではなく、RAM親和力を高める事自体を目的化したために、記憶に食い込んでしまうような芸術のあり方について。いくつか方法は考えられますが、(たとえば大量広告によって記憶させちゃうとか)特にやってみたかった事は「鳴くよウグイス平安京」的なやり方。平安京遷都七九四年という、覚えていてもまるで役に立たない、しょうもないようなことを、なぜこの歳になってもどうしようもなく覚えているのかというと、その「鳴くよウグイス平安京」のフレーズ故。きっとこのフレーズは死ぬまで一生私の脳のROMからこびりついて離れず、ときどきこのように私のRAMの中にも出現しちゃってくるのでしょう。(しょうもないことを思い出さなくてもすむような、キカイとかクスリってないんでしょうかね。)記憶されることを、すなわちRAMに近いところに組み込まれる事自体を目的としたこのフレーズはまんまとその目的通り、私の脳の中にも巣くっているのです。(余談。今年一九九四年は平安遷都一二〇〇周年。そこで、ああ、あの「鳴くよ」からちょうど一二〇〇年なのか、と感慨したことがありますが、それは一二〇〇年の悠久な時間にではなく、生涯役立たないに決まってると思っていたそのフレーズが、実際に役に立った!事自体に感慨したのでした。)
だからそういう、「覚えるため」だけの芸術を作ってみたいワケ。そして、(しょうもないことを思い出さなくてもすむようなキカイやクスリが発明されない限りは、)ときどき思い出してはイヤになるよな、「覚えなきゃよかった」みたいな、そんなはた迷惑で人騒がせな芸術をつくってみたいなと。最近その事忘れてた。
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●補足2・ROM・RAM生死論の穴
ところで、ROM・RAM生死論には穴があります。それは、ROMは解釈される(RAMに読み込まれる)時に作者の意図とは違って解釈されてしまうことがあるから。そこが面白いところでもあるんですけど。(このことを突き詰めるとまたもやバグや事故の効用という話にもなってしまう。)具体的にはショスタコーヴィッチなんかがその辺で格闘してる音楽家だったわけで、わざと誤読させるようなROMの残し方というのを、彼は当時のソヴィエト社会主義体制の中でやり遂げねばならなかったわけです。しかしわかる人にはわかるハズだと彼が考えていたとしても、実際に最大のショスタコーヴィッチの理解者とされる大指揮者のムラヴィンスキーまでもが誤読をしてしまう(ショスタコーヴィッチは彼の演奏に激しい不満の意を表明していた)わけで、つまりRAMをROM化するといってもさまざまな軋轢がそこにはあるわけなのです。結局、RAMのROM化を完了して自殺する天才芸術家とはおそろしく裏腹に、彼は死ぬ前にわざわざ弟子を呼んで「ショスタコーヴィッチの証言」という本を書かせ、アメリカで死後出版させる手はずを整えてから死ぬわけです。つまり芸術作品がぜんぜん完璧なROMになってないわけ。音楽的な立場からは、「なぜ彼は言語媒体を必要としたのか」とも言われてしまうハメに。無理もありませんけど。
あとショスタコーヴィッチとROMの残し方の関連について言えば、作品に頻出する、彼のイニシャルDSCH(Dmitry Shostakovich)をもとにしたRe-Mi♭-Do-Siのテーマや、さまざまな作曲家からの引用、特にユダヤ旋法からの引用など、ずいぶんと「読まれ、解釈され」る事を前提とした作り方がされてるらしく、まだそれらの解明は全然進んでいないそうですが、少なくともROM・RAM論的にはとても興味深い作曲家ではあるようです。
あとこんなところでひとつ、誤解の無いように断っておきますが、芸術の解釈にまつわる問題。この稿ではいささか「生きてる事の証」としての芸術みたいな、超マジな文脈で芸術と言ってしまっていますが、(そしてその文脈にショスタコーヴィッチを引き合いに出すことになんらマチガイはないと思っておりますが、)そーじゃない、たまたまROMとして残ってしまった芸術、たまたま作者の意図とは無関係に芸術となってしまったもの等、いろいろな芸術があるわけです。そゆもののあるものはこの「ROM・RAM生死論の穴」に関係し、さらにあるものはそれにすら関係しないでしょう。その辺は芸術論になってしまってしまってゆくので、今回は割愛。
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●補足3・音楽における、楽譜というROMの存在
楽譜なるROMの存在を、音楽家に対してうらやましいと思うことがあります。あるいは、現代の音楽家にとってはうっとうしいなだけの楽譜なのかもしれないけど。キャンバスに描かれた絵なら、見るだけでそれはRAM化されてしまうものなのだけど、楽譜に記載された音楽は、演奏家を介さないと聞き手にとってRAM化はされません。(現代なら録音しちゃえばいいからその意味で楽譜は不要になったといえます。)そこの地平、すなわち演奏家に対する命令書としてしかRAMがROM化されえないという地平でのアソビが、じつはわれわれの知らないところでいっぱいなされているのではあるまいか? と思うと楽譜の読めない自分がくやしい。
たとえばラヴェルはまったく演奏家を信じていなかったと言われます。演奏家を怒らせたいのかと思われるほどバカ丁寧な指示を楽譜に書き込んだそうなのです。それはCDを聴いてるだけではわからない事。あるいは、本来は音楽を作るために楽譜を書くハズなのですが、たとえばベートーベンなんかはどういうつもりで作曲してたのだろう? よく言われるのは、耳が聞こえなくなっても目が見えて楽譜が書けたから、彼は作曲できたのだという事ですが、もっとはっきり言えば楽譜が書きたいから作曲してたのではないでしょうか。……とは言いすぎで、彼の時代のリアリティとしては「音楽=楽譜というデータ」にすぎなかっただけかもしれません。しかしレコードが発明されていろいろな演奏家の演奏を聞き較べることができるようになると、楽譜データと演奏された音楽とにズレが生じてきて、ラヴェルの時代の頃からレコードとは別の、楽譜に対する作曲家のリアクションというものが出てくる様になったのだと思います。
実際、現代音楽のジャンルでは、そういった楽譜に対する実験が限りなく繰り返されていると聞きます。楽譜を展示して見せたい作曲家の個展。図形楽譜。そして音楽データ=MIDIとなった今日では、演奏から楽譜に直接入力する事ができるようになったという革命的な時代を迎えてしまったわけで、ROM・RAMの問題はどんどん大変になり、とてもショスタコーヴィッチどころじゃないわけなのです。とにかく、実際の音楽の鏡のようで、そうでもない楽譜というROMの体系を持ってる事が、私が音楽をうらやましいと思うことの一つです。(一九九四年六月記)
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1998.7執筆者注
四年前の文体と論旨の進め方で恥ずかしい限りだが、記録として貯蔵しておく。さらに、RAMに対する解釈が正確でないなど、文体にとどまらない内容的な誤謬もあるが、あえて原文ママとしておいた。