高松次郎と数の宇宙
文・構成 … 中ザワヒデキ(美術家)
●頁01
(導入)
◎リード173字
「作品を屹立すること」イコール「作品に形態を与えること」……本稿では、初期の「点」から晩年の「形」に至る高松次郎の軌跡を、"形態論" という立場から読み解きます。そのためにはさらに、古今の芸術や森羅万象に通ずる "数" の観点を導入します。「単数」「複数」「多数」「零」等の見方は、普遍を志向した高松の、一貫した理想と理念を明らかにするでしょう。
◎掲載図版
- 高松/板の単体(赤) 1970 <E079の32> →「色彩に覆われた一枚の平面」が言いたいなら、正方形か長方形で済むはずです。敢えて「多数」の鋸歯形を周囲に施したのは、「一枚」ということに揺さぶりをかけようとしたからではないでしょうか。
●頁02&03
「1」=単数
◎キャッチ
"1" 個の「もの」の屹立。形態。生み出し。 ……「点」「紐」「単体」「形」etc.
◎リード381字
高松は作品をシリーズで展開しましたが、どのシリーズでも作品の存在論的な根拠が自問されています。これは、未生のものを一個の作品として生み出すとはどういうことかという問いです。ここから「一個」すなわち「単数」という視点を導くと、初期の「点」と「紐」、中期の「単体」、晩年の「形」という、彼の芸術家人生を貫通する最重要シリーズが俯瞰できます。……それもそのはず。「1」とは、オンリー・ワンのこと。ひとつの形態にこそ、ひとつの明瞭な意味(イデア)が宿り、また、ひとつの意味こそが、ひとつの明瞭な形態(エイドス)を表すのですから。しかしながらさらに付け加えるとすると、高松の生涯に一貫した技法は、存在論的な根拠を「揺さぶる」ことでした。つまり「1」を言うためには、敢えて「1」の違反を犯すのです。これが「自問」ということであり、また、作品に逆説的な強度も与えているのです。
◎掲載図版(12点+天体1点)
- 高松/点 No.20 1961-62 <E031の06/小さくてよい> →「点」以前の作品群を見ると、いろいろな要素が凝集して「点」に至った過程がわかります。つまり「点」=全世界なのです。
- 高松/点 1962 <E032の08/小さくてよい> →ここで断っておくと、次元の話は高松作品における形態論とはさほど関係ありません。二次元平面上の点も三次元空間内の点も意味論的には等しいのです。
- 高松/紐(黒)1962、紐(黒 No.1)1962 <E034の10-11/ある程度大きく載せたい> →本来は内部を持たないはずの一個の点が、意味と形態を有するものとして展開されたものが、一本の線です。ちなみにこの写真では、二本の「紐」がひとつながりの線として置かれています。撮影段階での揺さぶりでしょうか。
- 高松/杉の単体 1970 <E077の31/左右カットしてよい/小さくてよい> →「単体」はOneness(単一性)と英訳されています。加工と未加工の二つの部分が共存してもなお一個なのです。
- 高松/黒御影石の単体 1971 <E083の36/ある程度大きく載せたい> →素材の単数性を、多数の破片が揺さぶっています。視覚的にも、本来明瞭な形態が多数の破片によって不明瞭化されています。
- 高松/形/原始No.1383 1995 <E143の61/小さくてよい> →高松は「多数」に耽溺した時期を経て、最晩年に再びひとつの「形」を生み出しました。「エイの形のような」と形容されています。
- ブランクーシ/空間の中の鳥 1919 <美術出版社「西洋美術史」p158/小さくてよい> →高松は、ブランクーシ作品における台座と彫刻の関係に着目しています。「杉の単体」や次項「複合体」の理念と関係がありそうです。
- ミケランジェロ/ダヴィデ 1501-04 <小さくてよい> →「無彩色・単体大理石彫刻」という美学を確立したミケランジェロは、新プラトン主義者としてイデア(=精神)と形態(=人体)を同一視していました。
- 中ザワ/768個の変曲点のある単一曲線 1997 <つぶれたりデータがとんだりしない程度のサイズにしたい> →ドローソフトと呼ばれるベクター方式のCGプログラムでは、線(=形態)は方程式(=意味)として記述されています。
- 中ザワ/120個の分銅から成る1347グラム(質量第四番) 2001 <小さくてよい> →いくら分銅が多数でも、質量合計は一個の数値として示されます。
- 音楽/モノフォニー(グレゴリウス聖歌) <小さくてよい> →中世のヨーロッパの教会では、複音声や和声の使用が禁じられていました。理由は、一神教の神の声は「一声」でなければならなかったからです(二枚舌はいけません!)。モノフォニー音楽では、ただ一本のメロディラインがあります。
- 生物/エイ <小さくてよい> →動物は、一個の表面(=形態)によって自己(=アイデンティティ)を外界から区別しています。ゆえに形態に対する侵襲(=外傷)はしばしば致命傷となります。
- 天体/恒星 (シリウス) <小さくてよい或いは色を変えてタイトルバックにしたりしてもよい> →(クレジットは入れていただきたいですが、コメントは不要です)
●頁04&05
「2、3、…」=複数
◎キャッチ
"2" 個の「もの」の出会い。コラージュ。違反。……「複合体」「柱と空間」「平面上の空間」etc.
◎リード236字
「単体」のアイディアを得たあとの高松は、さまざまな手段で「1」の違反を繰り返しました。あるとき、ついにそれが「1」に回帰せず、「1+1」は「2」であるとして呈示される事態となりました。それが「複合体」です。実際には「2」だけでなく「3」や「4」や、もっと多いときもありました。複数性は、形態論的にはコラージュやデペイズマンの系譜です。そして高松の興味は違反性のみにとどまらず、複数性が惹起する「関係性」や、新たに形成される「場」への関心から、やがて空間構成へと向かいました。
◎掲載図版(12点+天体1点)
- 高松/複合体 1972 <E097の42/ある程度大きく載せたい> →「脚立+レンガ=複合体」。シリーズ最初期の作品で、高松の中でも最も違反性の突出した知的な作例となっています。
- 高松/題名(#1060) 1971-83 <E093の40/小さくてよい> →「複合体」前史に位置づけられるシリーズで、単数性への回帰はまだ可能です。すなわち物質的には塗料が床にあふれ出してはいるものの、「題名」という題名が事象としての単数性を保証します。(本シリーズの最初の作品は鉄板の上でなく直接床の上で発表されました。)
- 高松/カンヴァスの複合体 #971 1973 <B53/ある程度大きく載せたい> →まん中の手描きの一振りが、二枚のカンヴァスを「コラージュ」(=糊づけ)しています。
【上記図版入手不可な場合… - 高松/カンヴァスの複合体 1972 <E101の44/小さくてよい> →二枚の彩色カンヴァスが「こすり」によって「コラージュ」(=糊づけ)されています。このシリーズの中には、一本の肉筆の線が二枚の無彩色カンヴァスを跨いでいるだけのものもあります。】
- 高松/複合体 1976 <E108の47/小さくてよい> →すでに本作では違反性の呈示よりは、幾何学的要素による構成に近づいています。
- 高松/平面上の空間 1978 <E115の49/小さくてよい> →平面上に単体としての「線」が複数配置され、形成された「場」には色面が置かれています。このシリーズは、「柱と空間」というインスタレーションのシリーズと並行して展開されました。
- 李禹煥/関係項 (制作年?) <小さくてよい> →ガラスを割るという情念性がデペイズマンを成立させています。
- ピカソ/牛の頭部 1943<小さくてよい> →コラージュの発案者ピカソは、「ビールをグラスに注ぐとき、ビールとグラスはコラージュしている」といったそうです。とすれば、高松の「題名」もたしかにコラージュです。
- フォンテーヌブロー派/ガブリエル・デストレとその妹(浴槽の二人の貴婦人) 1495頃 <小さくてよい> →この作品を目にした後なら、高松の「カンヴァスの複合体」等も性的な事象に見えるでしょう。
- 中ザワ/「430個の変曲点のある単一曲線」と「680個の変曲点のある単一曲線」の二作品同所配置 1997 <小さくてよい> →作者の意図は作品数としても「2」のままということです。音楽の分野ではジョン・ケージが「二作品同時演奏」を行っています。
- 中ザワ/正四面体型回路第一番 2002 <小さくてよい> →複数の電池が直列でも並列でもなく、違反的に連結されています。
- 音楽/ポリフォニー(バッハ「インヴェンション」) <小さくてよい> →ルネッサンス以降、ようやく教会は複音声の使用を許可しました。ポリフォニー音楽では、対等な複数のメロディラインが同時に鳴り響きます。
- 生物/シャム双生児 <小さくてよい> →動物は単数性をアイデンティティーとするため、複数性はタブーです。しかし植物ならばそうでもなく、たとえば「接ぎ木」や「挿し木」も可能です。
- 天体/二重星 (いるか座γ星) <小さくてよい或いは色を変えてタイトルバックにしたりしてもよい> →(クレジットは入れていただきたいですが、コメントは不要です)
●頁06 + 07の右1/3
「…、10000、…」=多数
◎キャッチ
"10000" 個の「もの」の集合。色彩。喪失。……「万物の砕き」「アンドロメダ」etc.
◎リード260字
結論からいえば、高松は多数性を多数性のまま追求するというアイディアを、明確には持たないままだったのかもしれません。しかし本質的な作品のいくつかは、明らかに多数性の原理を顕現しています。たとえば「万物の砕き」は、多種多数の「もの」の集合です。また「アンドロメダ」等、「形」以前の晩年の絵画では、諸要素の多数性が不定形性と色彩の快楽として顕れています。……そうなのです。絵画論としては、画面を多数の画素の集合とみなした、ヴェネツィア派から点描派に至る色彩画の系譜です。それは違反の重層による、形態と意味の喪失にほかなりません。
◎掲載図版(9点+天体1点)
- 高松/万物の砕き 1972 <E095の41/小さくてよい> →「黒御影石の単体」等からの展開で、当初は「複合体」と題されていました。改題は、「複数」と「多数」の違いが自覚されたからでしょうか。
- 高松/重なりのドローイング 19?? <E094のd-087/小さくてよい> →要素の多数性を視覚化するには、要素間の差異が強調されなくてはなりません。それゆえ点描画は必然的に色彩画として追求されることになります。本作はこの理論を見事に具現していますが、高松の作品歴において重要なシリーズとはなっていません。
- 高松/アンドロメダ(B-5) 1988-89 <E134の57-B-2/ある程度大きく載せたい> →曲線、点、色面等、多数の要素のアマルガムです。ちなみにこれと同様の作品で「形」と題されたものもありました。前々項の単数的な「形」と混同を来しそうですが、逆に言えば、混沌だからこそ高松はそこに「形」を見ようとしたのでしょう(ちょうどミケランジェロが、切り出したばかりの原石に人間の形を見たように)。そして、やがてこの種の画面から、「エイのような形」が立ち上がっていったのです。
- ヴィアラ/無題(第40番) 1968 <小さくてよい> →絵画から支持体(シュポール)を取り去って、表面(シュルファス)のみ追求した結果、ヴィアラは「ソラマメのような形」の多数反復に落ち着きました。
- スーラ/シャユ踊り 1890 <小さくてよい> →晩年のスーラは点描で線を追求するという奇天烈を犯しました。原子論的な点描が、イデア論的な線描と相容れないのは、ジャギーの出るビットマップCGでも同様です。
- 都築潤/Insector(部分) 2001 <小さくてよい> →輪郭は一本の線として単数原理を表しますが、このイラストで着目したいのは輪郭の内側です。ドローソフト(ベクターCG)でありながら、線の多数性がペインタリーな場の快楽を実現しています。
- 中ザワ/デジタルネンド 1996 <小さくてよい> →ペイントソフトと呼ばれるビットマップ方式のCGプログラムでは、画面は多数の正方形のピクセル(画素)の集合として記述されています。本作は、正方形の画素を立方体に置き換え三次元ビットマップとした発明で、32768個の立体画素を扱えます。ちなみに本誌前号で紹介されている中ザワの作品は、全て多数性の原理にもとづくシリーズです。
- 音楽/ハーモニー(ブルースのコード進行) <小さくてよい> →和声音楽では多数の音が同時に鳴り響き、快楽をつかさどります。
- 生物/クマザサ <小さくてよい> →地下茎で増殖し、多数の根や葉を張って表面を拡散させる植物は、どこからどこまでが一つの個体か同定しにくく、また同定する意味もあまりありません。しかし「場」への依存性は大きく、大地への固定性が生命維持に関わります。
- 天体/星雲 (アンドロメダ) <小さくてよい或いは色を変えてタイトルバックにしたりしてもよい> →(クレジットは入れていただきたいですが、コメントは不要です)
●頁07の左上1/3
「0」=零
◎キャッチ
"0" 個の「もの」? 不在。……「影」「光と影」etc.
◎リード146字
「点」と「紐」の後、「単体」で再び「1」を追求するまでの間の高松は、「0」について思考を巡らしました。不在(0)こそが、存在(1)を希求する原動力だと考えたからです。ところが「0」は何も無いということですから、形態論の爼上には載りません。「影」等の比喩によって不在性を暗示するしかないのです。
◎掲載図版(3点+天体1点)
- 高松/赤ん坊の影 No.122 1965 <E039の13/小さくてよい> →「影」は高松の代表シリーズですが、文学的すぎます。
- 高松/光と影 1973 <E091の39/小さくてよい> →「影」シリーズとは異なり「複合体」前史に位置し、「1-1=0」かもしれませんが「1+1=2」にも見えます。
- マレーヴィッチ シュプレマティスム絵画 白の上の白 1918 <小さくてよい> →高松は「影」と関連して、「新しい純白のキャンバスの上に、その純白のキャンバスを描写すること」という言葉を残しています。
- 天体/皆既日蝕 <小さくてよい或いは色を変えてタイトルバックにしたりしてもよい> →(クレジットは入れていただきたいですが、コメントは不要です)
●頁07の左下1/3
「≒1」…単数的
◎キャッチ
"1"をめぐる視覚と概念。「遠近法」「弛み」「石と数字」「文字」etc.
◎リード120字
作品は、まず、「もの」として存在させられます。しかし視覚的側面や概念的側面を、「もの」としての形態論的な存在よりも優先して追求することもできます。高松は「単体」開始前後にそのようなシリーズを展開し、「1」をめぐる視覚上と概念上の揺さぶりを行っています。
◎掲載図版(3点+天体1点)
高松/ネットの弛み 1968-69 <E061の21/小さくてよい> →絵画から表面(シュルファス)を取り去って、支持体(シュポール)のみ追求したドゥズーズには、伸縮自在の格子の作品があります。
高松/写真の写真 1972 <E099の43-8/小さくてよい> →「この七つの文字」同様の同語反復で、シニフィエの一意性を無化しています。
ダ=ヴィンチ/モナ=リザ 1503-10頃 <小さくてよい> →ダ=ヴィンチによるキャンバス絵画の発明は、壁画における位置固定性から絵画を解放しました。これによりもともと非・可算的な表面(シュルファス)は、支持体(シュポール)の単数性によって、可算的なものとなりました。
天体/惑星直列 <小さくてよい或いは色を変えてタイトルバックにしたりしてもよい> →(クレジットは入れていただきたいですが、コメントは不要です)
●頁08
(まとめ)
◎見出し
高松次郎と数の宇宙|まとめ
あえてエッセイ風に……
◎本文1104字
本記事執筆の打診をいただき、これは願ってもないと即OKしました。一鑑賞者として高松の作品にはもともと関心をもっていましたが、日本の現代美術史を執筆するような立場から見ても、群を抜いて重要な作家だとあらためて確認していたからです。しかも編集子からは、「美術家・中ザワヒデキとしての思想や作品にも触れながら」みたいなことも言っていただきました。ですから、かねてから一貫して私が追求してきた「数という視点から世界を語る」「数という視点から作品を創る」というアイディアを、高松作品を通して十全に披露し、そのことで高松作品を私なりに紹介できればと考えたのです。
もっとも、高松自身が「単体=1」を除いて、どれほど数に対して自覚的だったかはわかりません。本来なら「単数」と同等の分量を割くべき「多数」の頁を、高松自身の該当作品の少なさによって軽量化しなければならなかったといういきさつもあります。いえ、高松本人だけでなく、それを取り巻く批評も含め、「芸術数学」というような観点じたい、私は見たことがありません。私自身の経験に即して言えば、パソコン普及の黎明期にCGイラストレーターとしてビットマップの2Dツールを使いこなした経験、そしてベクター方式の3Dツールに非常な違和感を抱いた経験が、「多数=色彩=原子論」「単数=彫刻=イデア論」という二元論を肌身で確信した拠り所となっています。さらにそこから西洋美術史を逆算して解釈するようにもなったわけですが、どうも、こういうことばかり言うと異端児扱いされてしまうようです……。
しかしながら高松の「影」以外の試みがあまり顧みられず、あるいは作家として忘れ去られたような存在になっている現状は、あまりにも悲しい。ここは敢えて、牽強附会かもしれなくても、強力に数の観念で森羅万象を読み解き、高松作品に対しては明確な解釈指針を示させていただきました。それは逆に言えば、それだけ高松自身が普遍を志向し、宇宙のモデル化と自己の芸術を重ね合わせて追求していたということでもあります。
本文にも書きましたように、高松の全制作史は「1」=「作品を屹立すること」をめぐって展開されたのだと思います。作品屹立をめぐる還元主義的で本質論的な追求は、日本のみならず世界での当時の動向に合致あるいは先行したものでしたが、それが「多数」の方向からでなく「1」の方向からなされたところが、高松のミケランジェロ的でフィレンツェ派的な性向と言えるでしょう。ただ、面白いのは普遍を志向する過程で「複数」「多数」の作品がきちんと出現していることです。シリーズで展開した高松の作品経歴は、その意味で美術史の本質を凝集しているようで、私には、彼ほどその展開が「芸術数学」的な共感を呼ぶ作家はいません。
私自身は「多数」の方向からヴェネツィア派的な性向を自覚する作家のつもりですが、CGを通した見方もできる今の世代の者として、視覚芸術における二元論的な考え方が再び説得力をもつことを願いつつ、本稿が高松次郎再解釈の一助になればと思います。
2014-12-17
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