方法 第10号 2001年9月1日発行 ゲスト=田名部信 ほぼ隔月刊・配信誌「方法」は、方法絵画、方法詩、方法音楽などの方法芸術の 探求と誌上発表を目的として、電子メールで無料配信する転送自由の機関誌です。 不要な方、重複受信された方はご一報くだされば対処いたします。 * 方法主義宣言、同第二宣言 http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/ * 方法 同人=中ザワヒデキ(美術家)、松井 茂(詩人)、足立智美(音楽家) 巻頭言 足立智美 ゲスト原稿 思考(感受性)のフレームをはずすこと 田名部信 ゲスト作品 言語表現の基本的な要素として抽出された5つの母音字による作品 田名部信 同人原稿 大根と分銅と筆触・その二 中ザワヒデキ 湾岸以後の詩的状況 松井 茂 主観と客観のあいだに 足立智美 同人作品 「金額第一二番~第一八番」組成表 中ザワヒデキ 272の色彩詩・272の方角詩・272の音響詩 松井 茂 二手二足のためのエチュード 足立智美 お知らせ・編集後記 ↓ 以下、スクロールしてご覧ください ↓ ■■方法 第10号 ゲスト=田名部信 巻頭言 足立智美 第10号を迎える今号では実験詩の詩誌「δ」を主宰し、国際的なネットワー クの中で活躍する詩人の田名部信氏をゲストに招きました。新國誠一、北園克衛 以来の日本での視覚詩の伝統を引き継ぐと同時に、詩と芸術をめぐる刺激的な理 論考察をおこなう氏の言葉は、理論と実践の狭間をするどく照らします。膨大な アーカイヴ(アルシーヴ)を含む「δ」ホームページ http://plaza23.mbn.or.jp/~shishideruta/ もご覧あれ。 ■ゲスト原稿と作品 思考(感受性)のフレームをはずすこと 田名部信 感受し思考することと生きることは二重の出来事である。 ところで、普通ひとは何かを考えていると思い込んでいる。確かな根拠もなし に。言い換えればひとはそれと知らずに種々の先入観念に基づいていろいろなこ とを感受し考え生きているのである。というのも、ひとはまずもってそのひとに とって固有の共同体の中での教育や知識を通して種々の先入観念を骨の随まです り込まれるからである。そこから頑迷な態度が生じてくる。いわく、詩とはかく かくのものである。美術とはかくかくのものである。音楽とはかくかくのもので ある。etc.それが先人の教えだからという理由だけでこれらの意見は言説の大通 りを闊歩して歩く。しかし、こうした意見は無意味ではないにしてもまったく恣 意的なものだ。その意見を述べる主体の恣意性が批判的な検討に付されていない という点で二重に恣意的なのである。だが注意して見てみると、ひとは種々の先 入観念をまったく受動的にすり込まれるわけではない。ひとには自立的にかつで きる限り恣意性を脱して物事を感受し考えようとする傾向も生まれつき備わって いて、それがすり込みと衝突するということはしばしば観察されることである。 だが残念なことにその衝突(弁証法)が止揚されるのは大概は見えない権力装置 のフレームの中でしかない。 あらゆる言説の内部にそれとなく忍び込んで、先入観念の受容と自立的にかつ できる限り恣意性を脱して物事を感受し考えようとする傾向の衝突を実生活上の 功利性のさまざまな水準で中和してしまう見えない権力装置。そのフレームをは ずすこと、もちろんそれはおいそれとはずせるようなフレームではないが、その フレームをあらゆる手立てを通してはずそうと試みること、それも内側からその ように試みること、そこに、すでにあったのではなく繰り返し新たに生まれてく る創造者のための場がある。 この場はあらゆる命名を逃れ去る場であるだろう。だからその場に身を賭して 立ち出ることは、純粋に偶然的な存在としてのみずからをそのラディカルな名の なさにおいて引き受けることと等しいことになるだろう。逆説的だが、まさにそ の時になのだ。秘められた必然性がその姿を垣間見せるのは。ほんとうの意味で の新しい詩・芸術、つまり古さにただ外的に対立するのではなく、始まりとして の古い始まりを現在において始め直す新しい詩・芸術が誕生するのは。言うまで もなく、そんな風に新しい生もまた誕生するのである。 言語表現の基本的な要素として抽出された5つの母音字による作品 田名部信 http://plaza23.mbn.or.jp/~shishideruta/index010houhou.html 作品1:5つの母音字からなる1つの立方体の展開図 この作品はミニマリスト たちによる問題提起への1つのレスポンスである。作品2:5つの母音字による 無限連鎖の1つのアスペクト。作品3:母音字の生成機械について。 ■同人原稿と作品 大根と分銅と筆触・その二 中ザワヒデキ 戸外にイーゼルを立てて「あの木陰は○色だ」と筆触を置くことには、生理感 覚的意味がある。同様に、大根を台秤に載せて「この大根は○グラムだ」と述べ ることには、測定の意味がある。しかし200グラムの分銅を台秤に載せても、 目盛りが200グラムを指すだけで、常識的に考える限り意味がない。 常識的に考えなければどうか? 台秤が誤差のない理想的正確の計器でなく、 分銅が誤差のない理想的正確の質量でない限り、すなわち台秤と分銅が現実の実 体である限り、200グラムの分銅を台秤に載せることには確認の意味がある。 台秤と分銅が現実の実体でなければどうか? 頭の中の理想的200グラムの 分銅を、頭の中の理想的台秤に載せると、頭の中の目盛りは理想的200グラム を指し、測定や確認の意味はない。しかしそう述べること自体が、ダダ的な滑稽 感あるいは概念的徒労による不快感を測定者に惹起させ、情動的意味が生じる。 測定者が無情動の主ならどうか? 頭の中の理想的200グラムの分銅を、頭 の中の理想的台秤に載せて、「200グラムの分銅は200グラムである」と述 べたその瞬間、感情の動きはないままに、命題の承認という意味が派生している。 ここから、無意味は存在しないと結論づけられる。分銅も大根と変わりなく、 印象主義絵画における筆触と同様、意味に満ちている。そして、出発点の「常識 的に考える」ことの誤謬の指摘に現象学は向かい、あるいは測定者の存在すなわ ち劇場性の指摘に60年代の形式主義批判の論説は向かい、あるいは承認する主 体におけるアイロニーの指摘が、たとえば方法主義第二宣言には含まれていた。 印象主義絵画の筆触は、目に映じる色彩の、感覚的快楽の定着であった。大根 の質量測定は、調理計画を左右する、摂食の快楽の始まりであった。そして分銅 を台秤に載せた「作品」は、僅かな差異の確認という快楽と、滑稽あるいは徒労 の快楽と、作品と宣した作者自身の自己肯定性に依拠する快楽の、充満である。 無意味性としては、真の同語反復としての真のダダは存在しない。そして快楽 性としては、ダダは、印象主義そのものとしてある。 湾岸以後の詩的状況 松井 茂 1991年に起こった湾岸戦争に際し、当時いくつかの雑誌で詩の特集が組ま れ、反戦詩歌の是非と、意義をめぐり「湾岸論争」が、詩歌の専門誌上で展開さ れた。その際に当事者として関わった藤井貞和は、その経過を『湾岸戦争論── 詩と現代』(河出書房新社94年)として上梓している。この本で藤井が語った ことは、詩人は無力であることによってしか、詩人としての役割を持たないとい うことだった。つまり、詩を書く行為をする人を詩人と称し、詩人と称される人 は詩を書く行為をする人であり、そのことにおいてしか意味(=権威)を持たな い、ということを確認したのだった。この論争は、20世紀初頭のダダイストた ちが神無き時代の詩(諸学諸芸)の、無意味さ、無根拠さを証明した行為の再確 認と読むこともできる。さらに「湾岸論争」における問題点は、倫理を表現する 根拠がどこにあるかということでもあった。ここに「倫理としての論理を復権」 することが標榜された方法主義が登場する、ある種の状況が用意されたといって もいい(篠原資明が「方法詩」の語を使用し始めるのは92年のことだ)。 多くの詩人は、湾岸当時も以後も、顕在化した問題から目を逸らして、私情と 没入に溺れたままの詩を未だにたれ流し続けている。その中で湾岸戦争時に、反 戦歌それ自体への反措定として「日本空爆1991」という記号短歌を書いた歌 人・荻原裕幸と、前述の詩人・藤井貞和は、詩の同語反復性と倫理を表現する無 根拠さを当時もっとも体現した概念的な作家であったことは、歴史にとどめたい。 定型詩は、20世紀の神の死とともに表現の根拠を失った。偶成詩は、定型詩 の外部として成立しているから、定型詩の根拠が失われると同時にその表現の根 拠を失う。では方法詩は? 「湾岸論争」で再確認された無意味さ、無根拠さは 実際、方法主義にもあてはまってしまう。趣味判断に過ぎない。だが、しかし、 だからといって無意味さ、無根拠さに溺れることが許されるのだろうか。方法詩 は、湾岸以後の無意味さ、無根拠さを知ったうえでの、純粋な無意味さ、無根拠 さを意味と根拠とすることを目指した一種の政治として敢行されている。 主観と客観のあいだに 足立智美 「誰もいない森で木が倒れました。さて音はしたでしょうか?」という問いが ある。音がした、あるいはしないと言明することに意味はあるのだろうか。 もし芸術作品が予め客観であるとしたら、その芸術作品を発表する理由はある だろうか。もし作品が客観そのものであるならばそれを知らしめることには意味 はない。他者はそこに自分自身を見るに過ぎないであろう。逆に芸術作品が単な る主観的表現であるならば、それを発表する行為に意味があるだろうか。主観は 他者を必要としない。他者はそこに何も見いだせないであろう。芸術を発表する 行為は作品が客観であるのか主観であるのか明らかでない、という未明性、ある いは、それが客観であるかもしれないし主観であるかもしれない、という可能性 に根拠を置いている。そうそれは根拠であるともいえない曖昧さである。 しかし発表するという行為は主観の拡大としての共同主観を前提とすることと も決定的に違う行為である。誰が見るのか、誰に聴かせるか、は避けがたい問題 だが、それを前提とすることは主観を他者に投影しての自己確認にしかならな い。社会を前提とした芸術というのは結局のところ自らの芸術の存立を正当化す るために社会を仮定しているに過ぎない。社会はその都度、不可避的に立ち顕れ るもので、先験的に存在するものではない。では社会に対する私はどこにあるの か、そうそれもまた社会が顕れた時に初めて見出される。 私は客観/主観という敢えて古めかしい二項対立を用いつつも、この二項対立 を前提とするわけではない。実のところ、おそらくこのような言葉で語る他のな い物事がある、という程度の話に過ぎない。この二項対立を止揚する役割 -つま り理性と感性の調停- を芸術に与える近代的な美学とも訣別したい。芸術は何も のも解決しない。私にとって芸術とは客観、主観、社会、個人、そして誤解を恐 れずいえば神の存立を巡る問いかけである。その拠って立つところは曖昧さと弱 さだ。私は今、「私にとって」といった。これは「私」の問いかけなのだろう か?そうその問いのために私は理論を語るのだ。 「金額第一二番~第一八番」組成表 中ザワヒデキ http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/houhou010.html 五月に名古屋のギャラリーセラーで発表したシリーズ『金額』においては、『a 枚の硬貨から成るb円』という個々の作品タイトルこそ内容である。変数aとb に具体的数値を代入し、現実の実体として展覧したのは、美術展というある種の 儀式にそぐわせるための方便にすぎない。これは、その方便に使用した表組み。 272の色彩詩・272の方角詩・272の音響詩 松井 茂 http://www11.u-page.so-net.ne.jp/td5/shigeru/272.html 本誌前号で発表した「272の顔文字による詩」を色彩、方角、音響のそれぞれに変 換した詩。平安末に書かれた『管絃音義』に基づいている。 二手二足のためのエチュード 足立智美 http://www5.ocn.ne.jp/~atomo/houhou/work10.html 写真。 ■お知らせ (田名部信) ・「最終フェスティバル le dernier festival」 日程:2001.9/25~11/3 場所 Ventabren Art Contemporain[V.A.C] Le Moulin de Ventabren 13122 Ventabren〈ヴァンタブランはマルセイユ近郊、 エクス・アン・プロヴァンスから西に10㎞ほどのところにある村〉 tel. 04 42 28 85 61 fax. 04 42 28 74 06 V.A.Cを主宰するジュリアン・ブレーヌ(Julien BLAINE)他世界各地でそれぞれ に活動し、彼と親交のある現代の実験的詩人・アーティスト56名の作品を集めた 展覧会〈筆者の作品もふくまれる。なお、9/23 には6ないし7名のパフォーマー 〈霜田誠二氏もふくまれる〉によるパフォーマンス、10/7にも3名の別のパフォ ーマーによるパフォーマンスが予定されている。ジュリアン・ブレーヌによれば、 パフォーマンスは「肉と骨による詩作品」である。 ・「第4回ヴィジュアル・ポエジィ・パリ展」 日程:2001.11/10~11/24 日月休 場所:サテリット画廊 Galerie Satellite 7 rue Francois-de-Neufchateau, 75011 Paris (アクセント記号など略) tel. 01 43 79 80 07 fax. 01 42 87 23 07 地下鉄ヴォルテール駅から徒歩4分。 高橋昭八郎、伊藤元之両詩人の企画に基づき、現代日本の43名の顕在的・潜在的 ヴィジュアルポエトたちへ呼びかけがなされて開かれる展覧会〈筆者出品予定〉。 ・実験詩のための国際誌“δ”15号近刊。 (中ザワヒデキ) ・「ダイアローグ2001/バンフ・レジデンシーの作家たち展」に出品します。 2001.10.3-10.31(土日&10.8休)、カナダ大使館ギャラリー(東京)。出品作 家=岡崎乾二郎、ぱく・きょんみ、中ザワヒデキ、ジョエル・シオナ、渡辺英弘。 他作家交えたシンポ=10.2 14時 詳細=http://apm.musabi.ac.jp/act/dia2001/ ・新規開館する「病院ギャラリー」に常設展示されます。特別開館2001.10.5-8、 以降は日曜のみ開館。愛媛県伊予三島市中之庄町398-1 常設作家=赤瀬川原平、 秋山祐徳太子、合田佐和子、篠原有司男、中ザワヒデキ、流政之、四谷シモン他。 ・個展予定 2001.11.16-12.8 Helen Pitt Gallery(バンクーバー) ・インタビュー www.mao2.net/monthly_special/index_014_aug_main.html (松井 茂) ・9.1 「フジゆうジざイなしてきせんりゃく」と「藤井貞和『母韻』による色彩 詩」http://www.ne.jp/asahi/suigyu/suigyu21/sg/panda.html ・9.25 午後7時 テンプス・ノヴム第12回演奏会『アレンジメントの妙味』 宮木朝子作品「Still voice」にてテキストと朗読 北とぴあ・つつじホール ・9.29 午後6時半 カタって・キいて「藤井貞和自作朗読CD刊行記念」 ミて同人の朗読と藤井貞和インタビューを予定。 代官山エナスタジオ 松井は、くヲ(音)+滝本あきと(ダンス)で自作詩を演奏する予定 お問い合わせは、松井茂 shigeru@td5.so-net.ne.jp へ ・11/10~11/24 第4回ヴィジュアル・ポエジィ・パリ展 作品出品予定(詳細は田名部氏の「お知らせ」参照) ・8.19に行った「BG(M or P)?」について高橋悠治さんが言及しています。 http://www.ne.jp/asahi/suigyu/suigyu21/sg/sg09.html#yuji09 (足立智美) 9.1発売の『図書新聞』にPuddles2001について執筆。以下主な公演予定。 9.6 VACA(山田うん+足立智美)神戸公演(三宮BigApple) 9.13 Puddles 2001(東京ドイツ文化センター) 9.24 Insect Taboo(西荻窪Watts) 9.29 VACA(山田うん+足立智美)『右側通行』(ART-ING 2001:東京旧牛込原町 小学校) 10.12 一柳慧作品演奏会 構成、出演(横浜トリエンナーレ赤レンガ倉庫カフェ) 10.21-28 JapanNow にてソロ公演(スイス、ベルン及びポーランド、グダンスク) 以下SSW(山田うん、丹野賢一)ツアー。足立は山田うんの音楽、演奏担当。 9.5 大阪公演(扇町ミュージアムスクエア) 9.14-15 東京公演(アサヒスクエアA) その他、詳しくは http://adachi_tomomi.tripod.co.jp/a/schedule.html (方法) ・本誌既刊号は右にもあります。www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/haisinsi/ 第9号までのゲスト……篠原資明、古屋俊彦、三輪眞弘、建畠晢、岡崎乾二郎、 鈴木治行、石井辰彦、松澤宥、高橋悠治。 新規に配信を希望される方は、既刊号の要・不要を添えて同人まで連絡ください。 ■編集後記 最近は音楽以外のジャンルとの共同作業が多いのですが、メディアの相違とい うより、ジャンルを取り巻くさまざまな制度の相違に突き当たることがしばしば です。社会的関係に意識は規定されるというマルクス主義美学の正当性を感じて います、というのは半ば冗談ですが、、、。次号では美術、詩、音楽以外のジャ ンルから初めてのゲストとして演出家の豊島重之氏を予定しています。(足立) ■奥付・注意 機関配信誌『方法』 第10号 2001年9月1日発行(ほぼ隔月刊) 中ザワヒデキ nakazawa@aloalo.co.jp http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/ 松井茂 shigeru@td5.so-net.ne.jp www11.u-page.so-net.ne.jp/td5/shigeru/ 足立智美 atomo@theia.ocn.ne.jp http://adachi_tomomi.tripod.co.jp/ 本誌は転送自由ですが、執筆者の著作権は放棄されていません。改ざんや盗用は 禁止します。転送は転送者名を明記の上、各自の良識のもとに行ってください。