方法 第2号 西暦2000年5月5日発行 ゲスト=古屋俊彦 ほぼ隔月刊・配信誌「方法」は、方法絵画、方法詩、方法音楽などの方法芸術の 探求と誌上発表を目的として、電子メールで無料配信する転送自由の機関誌です。 不要な方、重複受信された方はご一報くだされば対処いたします。 * 方法主義宣言 http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/ * 方法 同人=中ザワヒデキ(美術家)、松井 茂(詩人)、足立智美(音楽家) 巻頭言 中ザワヒデキ ゲスト原稿 哲学的方法から美術という遅れへ 古屋俊彦 ゲスト作品 完全な固定性の合成に関する実験 古屋俊彦 同人原稿 ヒロ・ヤマガタ問題 中ザワヒデキ 改行ならびに「詩」について 松井 茂 フルクサスについて スコアと演奏(前編) 足立智美 同人作品 縦三一横二五の異種画素配置第二番 中ザワヒデキ 甲乙詩・2 松井 茂 方法音楽第9番「線の消尽」 足立智美 お知らせ・編集後記 ■■方法 第2号 ゲスト=古屋俊彦 巻頭言 中ザワヒデキ 配信機関誌「方法」第2号をお届けいたします。創刊号では一部ファックス配 信も行いましたが、今号から電子メールのみの配信とさせていただきます。 今回お招きしたゲストは、現代美術作家・美術評論家・哲学研究家の古屋俊彦 氏です。数年前、印刷物で『三つの固有名』という氏の作品に出会い、固有名詞 を作品として呈示するというその本質性に刮目させられました。本質主義も還元 主義も、まだまだやるべき事が残されていたと痛感した次第です。その後たびた び講演を拝聴し、哲学から越境した理由を「美術は存在を扱うことができる」と 語るその語り口を、方法主義の立場からお伺いしたいと思ったのが依頼理由です。 古屋俊彦ホームページ http://www1.neweb.ne.jp/wa/furuya/ ■ゲスト原稿と作品 哲学的方法から美術という遅れへ 古屋俊彦 近代哲学の主要な用語である方法を問題にするときには、哲学に関する歴史認 識の諸転換を段階的に確認する作業が、繰り返し要求されるだろう。なぜならこ の用語は、正当な近代主義の看板であり、今日においても専門領域としての哲学 の内部事情をあからさまに踏襲しているからだ。従って、哲学的方法という問題 設定はあまりにも荷が重いのであるが、確かにどんな場合でも避けて通ることは できないだろう。 例えば、方法的懐疑や弁証法における自分自身への反論の繰り返しは、その手 続きだけが正当化され、内容は常に暫定的なものとされる。そして、手続きとし て運用される方法は、目的と手段の相互転換を通して、絶えず前進していなけれ ばならない。しかし、この前進は、到達点からの一時的隔離という外部要因によ って維持されている論理的流動性の内部でしか成立していない。流動性の動的な 継続は、最終的な目的の不在から手段への本質的な後退によって完成するように 見えるが、その完成は流動性の急激な加速による見かけ上の静止像でしかなく、 かえって動態の持続への全面的な依存状態が正当化されることになる。哲学的方 法はこのような流動性の拡張にのみ関心を持つことを必然的に強いられる。 近代哲学が方法の運用の場を言語に局限していることが、哲学に関するもう一 つの歴史認識の根拠になる。言語は、哲学にとって具体的な論理的流動性を検証 する実験の場である。流動性の内部では意識への無時間的な回帰が必要条件であ るため、ここで扱われる言語は、伝達や思考の手段としての音声言語である。書 記言語は、若干の目的性を帯びた特異な場として扱われる。だからといって書記 言語が方法の突破口になるわけではない。書記言語が大規模な分散と回収の繰り 返しによって流動性を拡張する手段として運用されるならば、やはり動態の持続 への全面的な依存状態を脱することができない。 動態の採集を前提にしない固定性の合成は、それ自身が完全に停止した方法の ための実験であると言える。かくして、言語の言語的な停止がたどり着くであろ う未だ存在していない美術という場が一方的に想定されることになった。美術は 恐らく、流動性から取り残された最も遅れた領域ということになるだろう。残留 物を無条件に負わされる最終的な敗残者という姿が、美術にはふさわしい。動的 なものは、常に別の場所へと回収され、真に固定的なものがきびしく検証される だろう。最終的には、ここでしか扱えないものが、美術に集中することになる。 完全な固定性の合成に関する実験 古屋俊彦 http://www1.neweb.ne.jp/wa/furuya/houhou/ 文字を符号や画像として離散的に扱ったとしても、唯一多次元展開が可能な一 次元の非周期的連鎖は、その決定によって連続体になるのではなく、ただ生成の 論理的背景を消去するに過ぎない。決定がそのまま消えていくか、何千年も残る かはここでは問題にならない。目撃者の人称性は、もはや消せないからである。 ■同人原稿と作品 ヒロ・ヤマガタ問題 中ザワヒデキ 現代美術関係者以外には多少わかりにくいかもしれないが、ヒロ・ヤマガタと 聞いただけで耳を覆いたくなるような不快感がこの名にはある。ラッセン、マッ クナイトなども同様で、視界に入っただけで眼も心も汚されたような気分になる。 だが、最も多くの人々に愛され、買われているのが彼らの作品だ。市井の人々 にとっては、彼らこそアートの代名詞である。うっかりアーティストと名乗れば 「なぜヒロ・ヤマガタのような絵を描かないの?」、うっかりギャラリストと名 乗れば「なぜヒロ・ヤマガタを扱わないの?」。無邪気な質問に対して律儀に近 代美術の講釈を始めたところで、歴史や知識に頼らざるを得ないアートの脆弱さ にかえって気付かされるばかりだ。結局、うやむやにしてその場を逃げる。 逆に美術関係者にこの問題をぶつけてみる。「デッサンが下手」「イラストだ から違う」「売れていることに対する(われわれの)嫉妬」など、さまざまな答 が返ってくる。だが、どの説明も苦しい。もっと下手な作家は沢山いるし、また、 今では下手は誉め言葉だ。そして、『日本ゼロ年』展に見られるようなポストモ ダニズム的言説は、イラストとの間の垣根を取り払おうとしている(にもかかわ らず同展では周到にヒロ・ヤマガタ派が除外されていた)。そもそも「下手」も 「イラスト」も無視すればよいだけで、嫌悪を感じる必要はない。唯一嫉妬感情 のみがわれわれの不快感を説明してくれるが、だとしたら現代美術業界全体が、 彼らに圧倒的敗北を喫していることになる。実際、美術館が観客動員数を気にし たり、画廊や作家が売上を気にしたりするならば、ヒロ・ヤマガタ派になればよ いだけだ。理詰めで考える限り、どうやっても軍配はヒロ・ヤマガタらに挙がる。 私はこれを「ヒロ・ヤマガタ問題」と呼んで、二十世紀中に解決したいとかね がね思っていた。結論を急ぐと、現状の民主主義体制を是認している限り解決不 可能と判断した。逆に言えば、美術は、種々の寛容が惹起した商業本位的衆愚と は相容れない何らかの権威によって、画定されなければならない。その権威を、 同語反復を内包した論理に求めたのが方法主義であり、私の考える解決である。 改行ならびに「詩」について 松井 茂 はじめに〈うた〉があり、文字を使いその表記をこころみる。素朴に詩の来歴 のモデルを想定する。〈うた〉から表記へと辿られる来歴のエポックとして、改 行の発生をあげることができるだろう。改行によって、詩は〈うた〉、つまり音 声から脱したといえる。旧来の和歌(あるいは短歌)は、31音の〈うた〉であり 音声詩であるから、表記上の改行は必要としなかった。音数律にもとづく定型は、 現在わたしが「詩」とよびたいものに比べれば、〈うた〉に近い。いうなれば、 それは音楽と詩の未分化状態といえるのではないか。 そのような状況の中で改行を知った、その時点に、いわゆる自由詩と呼ばれる 現在の「詩」の発生があるのではないか。おそらく、改行(とスペース)により、 表記でしか提示できない方法が確立されたといえる。具体的には、50音図の成立 が、現在わたしたちの提示する詩の成立といえるのではないか(その前段階とし て漢詩の受容の問題をもっと意識するべきなのだろう)……。 ここまでたんに「詩」という言葉を使用しているが、それについて触れておく。 現状がどうであれ、わたしの認識では、現在一般に自由詩といわれているものは、 音数律から自由という程度の意味で、無制限な自由を指しているわけではない。 同時にそれは、表記上の自由の保障としてあるが、それをあえて「詩」とよぶ以 上は、無秩序な自由を指しているわけではなく、なにをもって詩とするのかとい う、いわば詩の倫理を模索することにおいての自由であろう。もっとも「これこ れをもって詩である」ということをいい難いことは、さまざまな先行の論攷から も明白なのだが……。意味内容からそれを詩であるかないか云々することは不可 能であろう。おそらくはその提示方法をもって詩であるかないかをいうしかない のだと思う。その点に立ち、詩という言葉を使用している。方法詩という言葉は 同語反復であり、つまり、すべての詩にはなんらかの提示方法が内在している。 改行がこれにどう関係してくるか、「詩」についての詩論はまさにこの点から 始まるのではないか。 フルクサスについて スコアと演奏(前編) 足立智美 この小論は3月におこなわれた私自身によるフルクサスの演奏会 "Fluxconcert"上演準備、及びプログラム作成時の思考をまとめたものである。 コンサートは終了しているが、写真、プログラムは以下のURLで見ることができ る。 http://www1.webnik.ne.jp/‾atomo/onkou/kako5.html 最初に確認しておくが、フルクサスのパフォーマンスは一回限りの刹那的なも のではない。というのは多くのフルクサスのイヴェントは上演に先立ってスコア が書かれ、その指示にしたがって現実のパフォーマンスがおこなわれたと考えら れるからである。実際の「上演」がなかった、つまりスコアだけで完結した作品 が多いことにも留意しよう。あるいは「ハプニング」に対する「イヴェント」と いう用語に注意を向けてもいいだろうか。故に、パフォーマーと作者が多くの場 合同一人物であるにも関わらず、フルクサスのイヴェントのあり方は、作曲/演 奏という近代西洋音楽の分業制に忠実な、というよりその極端なまでの現れであ ることが理解されるだろう。 フルクサスの作家で理論家であるディック・ヒギンズはおそらくこの事態に関 連して「例示主義」("examplativism")という指向を表明している。「これ は作品がある種の最終的な実現ではなく、むしろひとつの例−ひとつの可能性、 あるいは可能な実現の抽出見本−であるような芸術である」(「インターメディ アの詩学」白石美雪訳)。この考えをパフォーマンス論とみなす限り、楽譜にイ デアが存在し演奏はその仮象であるというような素朴で即物的な演奏観に近いよ うに思われる。しかしスコアの持つあからさまな無意味は逆にイデアの不在をこ そ際立たせる。現象は常に最終的な実現ではないとしても、無数の現象を並べた ところでイデアが透視されるわけではない。そもそも何の関係も記述されていな いスコアのイデアとはなんだろうか?私はここで、これまた素朴なイデア批判、 あるいは演奏中心主義を述べたいのではない。むしろ演奏家の解釈の否定がここ では要請されているのではなかろうか? (以下次号) 縦三一横二五の異種画素配置第二番 中ザワヒデキ http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/houhou002.html 本作においても、個々の塊における漢字群と碁石群は囲碁における「セキ」の配 置となっている。前作(同第一番)は「攻合いのセキ」だったが本作は「生死の セキ」。意味創出に参与しない仮名は生死を賭した戦いにも参加しない。囲われ るべき空白の地は、原稿用紙上の空白文字、セザンヌのリンゴの塗り残しに相当。 甲乙詩・2 松井 茂 http://homepage.mac.com/to_ma_to/kouotsushi2.html 上代特殊仮名遣いによるシリーズ。表記によってのみ提示しうる音韻をテーマと しているにもかかわらず、漢字を使用していることによって意味に憑依されてし まう。その転換点を「詩」として提示した作品である。 方法音楽第9番「線の消尽」 足立智美 http://www1.webnik.ne.jp/‾atomo/houhou/work2.html 楽譜。 空間を線で塗り込める。線は面になる。 「その1」は行為と音による、「その2」は行為による線。 点が線として認知されるかは関知しない。 ■お知らせ (古屋俊彦) 文字に関する最近の論文 「文字の存在論」 「文字の意味論1」 お問い合わせ furuya@ha.bekkoame.ne.jp (中ザワヒデキ) 今秋から来夏にかけて個展開催予定の佐野画廊(香川)から、作品パンフレット 『1997-2000 中ザワヒデキ』を発行していただきました。収録テキストは建畠晢 「方法への還元」英訳付、A4判22頁、スミ+特色の精緻な印刷です。通販は送料 込1,000円で佐野画廊(T/087-874-5268)または中ザワ(nakazawa@aloalo.co.jp)迄。 (松井 茂) 詩的言語会『カタって』(同人誌『ミて』主催) 〈第12回〉5月17日(水)PM 7:00〜9:30、カンダパンセ 505室 発表者:松井茂「ぼくの方法(2000)」(詩人。「ミて」同人) 武石藍「反言霊考」(言霊研究。http://homepage.mac.com/to_ma_to/) 〈第13回〉6月21日(水)PM 7:00〜9:30、カンダパンセ 505室 発表者:藤富保男 カンダパンセ 千代田区西神田3-9-10 TEL:03-3265-6366 お問い合わせ:shigeru@td5.so-net.ne.jp(松井茂) (方法) バックナンバー(第1号ゲスト=篠原資明)は以下の頁です。新規配信希望者は 同人まで連絡ください。http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/haisinsi/ ■編集後記 2月29日の創刊後、予想以上に大勢の方から配信希望通知をいただき、感謝して おります。前号で告知したイベントや執筆活動等を通じ、方法芸術を巡る状況は ここ数ヶ月間で好転しつつあるように感じています。来年三月の「北九州ビエン ナーレ」(北九州市立美術館)への何らかのかたちでの参加等、いくつかの企画 が進行中です。(中ザワ) ________________________________________________________________________ 方法 第2号 西暦2000年5月5日発行(ほぼ隔月刊) お問い合わせ=TEL/FAX03-5351-6874(アロアロインターナショナル内) 中ザワヒデキ nakazawa@aloalo.co.jp http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/ 松井 茂 shigeru@td5.so-net.ne.jp 足立智美 atomo@mail1.webnik.ne.jp http://www1.webnik.ne.jp/‾atomo/ 本誌は転送自由ですが、個々の原稿に対する執筆者の著作権は放棄されておりま せん。改ざんや盗用は禁止します。転送は各自の良識のもとに行ってください。