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「絵と文化的場所」
90年代の韓国美術から−等身大の物語  東京国立近代美術館
       中ザワヒデキ マルチメディア・アーティスト

 さてわれわれは美術展に何を求め、何を見に行くのでしょうか? 何かしら未知の出会いを求め、未知の視覚を目が欲しているのでしょうか? あるいはたんにそんなことも何も考えずに、まず見に行くことが大切なのでしょうか?
 それほどよく知っているわけでもない韓国の現代美術展を見に行くのは、ひとつにはそれが日本の現代美術、ひいては日本の近代以降をよりよく知ることにつながるだろうと思うからです。西欧文明をどう受容し相克していくかが、結局韓国でも日本でも近代以降の重要な課題となっているであろうことは、容易に想像がつくでしょう。
 しかしそれだけの理由でもないでしょう。企画者の一人である千葉成夫氏も、「本当のところを言うと、理由はよくわからないままずっと惹かれてきたから」と本展カタログに記しています。もちろん知識を持ち展覧会を企画する立場と、それほど知識を持たずに展覧会を見に行くだけの立場はまったく異なりますが、なぜだかそこに何かがあるような気がして、思わずこの展覧会に足が向いたのもまた事実なのです。
 さて展覧会の見方ですが、普通このように何人もの作家を集めたような展覧会だと、キュレーションすなわち展覧会の企画のされ方それ自体が、もっとも重要な見どころとなるわけです。特に近年のキュレーションの流行を経過した後では、それが当たり前ですらあります。そしてキュレーションの題材として近隣のアジアの国の美術が紹介されるのも、最近の流行のひとつと言えるでしょう。しかし今回の展覧会を見てあらためて感じたことは、やはり展示される個々の作家の作品内容が前面に迫ってきてこそ、面白いのだという事でした。その意味でこの、韓国の若い世代の作家たち14人をしっかりと展覧した本展は、なかなか良質な展覧会であるように私には感じられたのです。もしかしたらそれは私がよく知らない作家ばかりだったから、作品がそれ自体で新鮮だっただけかもしれません。しかし、だとしたら他にもよく開催されているアジアの国の美術展はもっと面白くてもよいはずだし、いつも感じるある種の空回り感は、もっと少なくてもよいはずです。
 今回は特に私が面白く感じた金洪疇(キム・ホンジュ)氏の作品について述べましょう。個人的には、こんなにも自分が面白いと思える作家一人に出会っただけで、すでに美術展を見に行くことの意義が達せられたような気がしたのです。こういう出会いがごくたまにでもあるから、われわれは美術展を見に行くのでしょうか?
 その作品がどの程度韓国の土着的なイコンを表徴しているか私は知りません。しかし身長ほどの正方形キャンバスいっぱいに描かれた一輪の紅い花は、オリジナルのキャンバス額と相まって、何やら非常に東洋的で神秘的なのです。執拗に描かれた花粉等に目が行くに付け、「あやしい」と感じたのですが、妖しいのか怪しいのか、両方なのか? しかもそのあやしさを計算ずくで呈示してくるうっとうしさがまた快感でしょう。両脇には土臭い文字群……何が書いてあるかわからないけど漢字の羅列……が何本かの縦の空白で分断されてしまったイメージがあり、一見したところ難解です。いや、わかりやすい。タイトルは全部、無題。
 こんな圧倒的な仕打ちを受け、さらに「絵と文化的場所」と題された作家自身のコメントに、納得するところがありました。「私は文字や図像から絵を始める。(中略)それらの意味は変化していくだろうという期待の中で漸進的な制作がなし遂げられる。だからといって、既に決定されたある意味を念頭に置かないわけではない。その意味は観衆と文化的場所によって生成されるであろうと思われるからである。」
 これを読んだ瞬間、なぜ韓国の現代美術展を見に来たいと思ったのか、そして日本の現代美術を知りたいと思うのか、それをその仕組みの部分でわかったような気がしたのです。金洪疇氏の直接の意図とは異なるかもしれませんが、韓国の現代美術展をわれわれが見るとはどういうことなのか、すでにここに記されているではありませんか。そしてさらに、ここで述べられている被鑑賞物と鑑賞者の間の意味のやりとりやズレの生成が、この通りの圧倒的な実例として現れているのを目の当たりにすれば、われわれはもっと一般論的に世界を「見る」ということがどういうことなのか、その足がかりを得ることができるようにも思えるのです。