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何考えてるんですかこの人は一体!
西尾康之展 《固形天使動力天使》
           中ザワヒデキ マルチメディア・アーティスト

 「何考えてるんですかこの人は一体!」と思った瞬間、その作家が作品に託した思いや意図一切が、いっぺんにわかってしまったような気がすることって、あります。観る者としては完全に「してやられた」敗北状態なのですが、同時にそれは幸福の一瞬でもあり、そんな目に随分久々に遭わせてくれたのが、彫刻家である西尾康之氏の今回の展覧でした。  予備知識無く会場に足を踏み入れたのですが、一見してすぐアニミズム出自の作家だということはわかります。その土俗性をむき出しにした過剰なまでの細部の仕上げの集積には、ただただ「よくやるな〜」という第一印象。しかし全体の様子からはいまひとつ何の形態だか、よくわかりません。取りあえず細部に目をやると、これは驚いた、指だの爪だのネジ頭だののそのままの形態が、こっちに向かって生々しく突き出ています。何だ、一体何が起こってるんだ?
 壁の小さい作品群が、なかなか琴線に触れます。親指でこっち側に押し出された形態に、さらに爪痕が付され、顔のイコンとなったものが60体。なるほど簡単な作りではありますが、自分の身体を第一の基本として万物に宿るいのちを確認するというその姿勢に、真の創作動機を感じとることができます。土俗主義な表層は大抵の場合、ただの西欧モダニズム批判等の記号にしか見えないものですが、この作家はどうやらとっくにそのレベルを超えているようです。
 そしてもう一回、会場いっぱいにゴロゴロ置かれた彫刻群に目をやると、どうやら形態は、見たことのない何かの機械的生命体のようです。しかし指だの爪だのネジ頭だのが突き出た細部に目を奪われれば、ひたすら細部が過剰に延長されただけの「全体」を見失っても、構わないような気さえしてくるのです。しかしそうだとしら、この自信に満ちた指使いは一体何事でしょう? 壁に掲示された作品名を見てみると、先程の壁の小品だけが「固形天使60」と名付けられていて、他はすべて「動力天使」と題されていることがわかります。しかしそれら「動力天使」にいちいち付されたカッコ内の名称……「動力天使(中空ヘディングマシン)」とは何? 「動力天使(ナットホーマー)」とは一体? 「動力天使(マイクロスラグプレッシャーダイス)」と言われても……?
 作家自らの口上が別掲されているので読んでみると、「私がこれらの作品を制作している時に何を思い描いているかと云えば、母の胎内に居ながらにして、外界に自分の主張・表現を試みる胎児であります。果たして現実にそのような胎児ちゃんが居るかは判りかねますが、私自身何かの胎児になったつもりになるのです。……」とあり、それにしても胎児をちゃん付けにする神経が謎を呼びます。文意は詰まるところ作品の内側に作者は居て、指だの爪だのネジ頭だのを、外界への信号として感情いっぱい子宮壁を押すように中から押し出しているんだということで、これはよく理解できます。しかし、この時代錯誤的な部分の集積が、どう見ても過剰な訳の判らない「中空ヘディングマシン」だとしたら、何考えてるんですかこの人は一体!  そしてその瞬間私は、この作家の「全体は部分単位の集積」という原子論的世界観が、激しくアニミズムと一体をなしていることを直観するのでした。指の一押し一押しが個々の想念のドット単位で「固形天使」であるならば、それを一次元の線へと伸長し、二次元表面へと集積し、三次元の造形にまで拡張するその「過剰への必然」は、まさしく「動力天使」にほかなりません。種明かしをすれば町工場にあるマシン油にまみれた機械群がモチーフとのことで、なるほど指使いの自信も一見不可解なネーミングも、これで納得。本人はそれら機械にも生命を感じるのでしょうが、われわれ鑑賞者にとってまずは、アニミズムをその記号性から引き離してくれる効果的なモチーフ選択だったと言えるでしょう。
 そして彫刻というよりは、正確には粘土による塑造工程で得られる立体のネガポジ反転の手法は、ロダンすらも解決しえなかった三次元ゆえのトポロジー的不自由さ……物体内部をわれわれは手にすることが出来ない……に対する見事な反世界からの回答であり、それを、ちゃん付けではあってもいまだ生まれざる胎児における原初的衝動と一体化する作家の見事な手腕には、ひたすら敬意を表したいと思うのです。久々に「美術」の立ち現れる場を、肯定的に実感することのできた展覧でした。