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目盛りのないアナログ温度計
諸泉茂展 中ザワヒデキ マルチメディア・アーティスト
不勉強で、はっきり言って全然存じ上げなかった作家です。たまたま通りすがりに入った個展会場で琴線に触れるものがあり、見れば見るほど作品の狙いの精度も細やかなものに感じました。こういう理想的な出会い方って、実はそんなには無いことです。
展示されている作品は全部目盛りのないアナログ温度計の作品。一室では私の背丈より高い温度計が、空中にきれいな弧を描いて垂直に三十本吊るされています。その下端が床上数センチにきちっと照準されているその細やかさに、まずは姿勢を正される思い。同時にその場に置かれた二台のグラフィック温度記録計は、たった今私がやってきたこの会場の室温変化を、やはり目盛りのない記録紙に律儀に経時的に描画し続けていました。
もう一室の会場の真ん中に設置された作品は、沢山の温度計を放射状に並べ、モーターでグルグル回し続けるというもの。なるほど、先程の部屋の温度計に明らかな垂直のベクトルを、ここでは見事に遠心分解しているというわけです。壁面にはY字形の温度計が展示されており、そうか、温度計とは液体の体積の膨張を単一のベクトルとして表示する直線存在でありますが、それを今度は直線ではないY字形へと分解してしまった事態となります。この作家はきっと、ベクトルということが結局指し示すであろう「モダニズム」ということを、なにやら用意周到に可視化し、しかもゆらぎを与えたいというわけではないのでしょうか。
壁面のもう一つの作品群は「箱の中の20℃」というシリーズで、これは先程の部屋のグラフィック温度記録計と同様に、われわれはその系に影響を与えることなしに観測することはできないという、一種の量子力学的帰結をテーマにしています。すなわち世界が本当は「不可視」であることを呈示しているのです。先程の「モダニズム」という観点から言えば、そのことの基礎をなす「記述すること」の厳密な意味における不可能性に言及しているというわけであり、すなわち部屋や箱の中の温度は実は計り得ず、さらには「名付けること」の不可能性までが示唆されているのでしょう。温度を計るとは記述すること、それはすなわち所有し名付けるということだからです。温度というと特殊かもしれませんが、目があって初めて見えるのと同様、温度計があって初めてあらゆる物体に温度があることを知り、さらには数字があるから数値が記述でき、言葉があるから名付けがあるという次第。温度の系は見事に名付けの系のことなのです。
そして、これは私の直観なのですが、このような作品を作る諸泉茂という人は、本当はその「モダニズム」が大好きでしょうがない人なのだろうと思うのです。つまり垂直ベクトルを具現する直立した塔などが大好きで、また物事すべてを名付けるということも、本当はとても好きに違いありません。好き過ぎて、逆にそれが決して出来なくなってしまった、その間の事情がこのような作品として結実しているのでしょう。ファイルを見ると氏が昔、塔をモチーフとする作家だったことがわかり、さもありなんというわけです。そして本当は氏は、いずれはすべての空間にデジタル寒暖計を設置するくらいの事はやってのけたいのではないかと勝手に憶測するわけですが、そうした途端に何も成り立たなくなってしまうことをも氏はよく知っていて、そのギリギリの「名付けないでいよう」とする地平に留まることの緊張が、ここ六〜七年、氏がこだわり続けているというこれらアナログ温度計の作品群に託されているわけではないでしょうか。
その意味で言えば諸泉氏は、随分まっとうすぎるくらいの、「もの派」的問題意識を継承する現代美術家だと位置づけられるわけです。名付けることの暴力から丁重に身を引き、そこに結果として立ち現れる温度計の赤い液体の長さ……決して数値化されることのない……と、ただ対峙しようとする寸法です。その名付けないことの過激さ、すなわち温度に着目したとしても、発熱体や冷却物質を直接持ってくるような主観芸術とは対照的な客観でいつづけることの過激さが、狙いの精度の細やかさに、きちんと裏打ちされているというわけなのでしょう。