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自己パロディの方法論
宮島達男「COUNTER VOICE」
              中ザワヒデキ マルチメディア・アーティスト

 ジャスパー・ジョーンズの「3つの旗」という作品をご存知でしょうか? 星条旗をそのままキャンバスに描いて衝撃的なデビューを飾ったジョーンズがデビュー後3年にして発表した作品で、大・中・小3枚の「星条旗を描いたキャンバス」を、まるで「親亀の上に子亀、子亀の上に孫亀」といったあんばいで重ねてしまった、ちょっと奇天烈なシロモノです。
 評論家の上田高弘氏が以前ある雑誌でこの作品を簡単に紹介しており、「ある営為が反芸術としていかに大きな衝撃力をもちえたとしても、そこからの『展開』を目論んだ瞬間に自己のパロディ化にいたらざるをえない、その事態が典型的にここに例証されている」と書いているのです。なるほど、なんだか奇天烈だとは感じていたけど、「パロディ」の一語でその奇天烈さの所以が見事言い当てられているわけですね。
 さてこの度の宮島達男氏の新作展「COUNTER VOICE」においても、画廊に足を踏み入れた途端思い至ったのが、この「展開という自己パロディ」という事についてでした。なにしろ宮島氏といえば、明滅するデジタルカウンターで世界的にも大変有名なわけです。ところが今回はトレードマークのデジタルカウンターがどこにも無いばかりか、本人が出てくるビデオ作品であるということだけですでにとても画期的。そして壁いっぱいに映写されたビデオ画面中の本人は、声を上げて「9、8、7、……」とカウントダウンしているのです。すなわちここ7〜8年の彼のおきまりの作品のバリエーションという以上に新たな「展開」が示されていて、しかし自らの作品のデジタルカウンターを、アナログの本人自身が模したという、どうしようもなく「パロディ」でもあるわけです。
 ビデオは2作品あり「COUNTER VOICE IN THE WATER」では本人の真ん前に水をはった洗面器が置かれ、カウントダウンが「0」まで達すると「0」は発声されずに本人は顔を洗面器の水に浸けて息を止めてしまいます。これは彼のデジタルカウンターの作品において「0」が点灯されずに暗闇となるといった決まり事に依拠しているとはいえ、もしかすると作者はここで笑ってほしいのかもしれません。もう1作品「COUNTER VOICE IN THE AIR」では綱によって本人が空中に吊るされており、それだけですでに、とても面白い事態なのではないでしょうか?
 いや、そういった第一印象はさて措いて、もっと冷静にこの作品の意図するところを考えてみると、今回の作品はここ7〜8年の彼のデジタルカウンターでの作品群の意味をさらに強化し、補足するものであることがすぐにわかるわけです。もともと彼はテクノアーティストではありませんでした。つまり「時」と自己の存在をある種もの派的な方法論によって出会わせるという彼の制作スタンスは、デジタルカウンターでの作品以前から一貫して追求されていたわけだったのです。勿論デジタルカウンターの使用によりそのテーマはより一層洗練されたわけだったのですが、今回は再びデジタルカウンターを使わずして、またも同じテーマが追求された事となり、つまりは相対化することにより逆にデジタルカウンターでの作品群の意義をも再生産しているわけなのです。
 しかしそれだけだとしたらもっと淡々とやった方が実はコンセプト的には無駄なく秀逸なはずでしょう。それなのに何故こんなに思わせぶりたっぷりな「面白い」ジェスチャーが伴われているのでしょうか? カウントダウンも「何故か英語」であまり発音も上手とは言えず、しかもネクタイに脂っぽい顔つきでは、ちょっぴりイヤミで不快ですらあります。しかしその不快さこそが私にとっては説得力を感じさせてくれる源なのですが……。
 そう、前述の上田氏の言い方においても「パロディ」の語には揶揄の感覚が込められています。宮島氏にしろこの作品のアイディアはもしかしたら何年も前に思い付き、しかし自己パロディ化の面白主義に陥ることだけは避けなければならないと厳しく自制していたようなものだったのかもしれないわけです(真相を知りませんが)。しかしやる時はやる。どうせやるなら思いっきりイヤミに演じてみせる、そういった何かしらの「自己パロディの方法論」が、ここでは周到に意識されているのではないでしょうか。
 多分この作品には「ただのパロディ」といった否定的な見方と、「面白いし笑える」と能天気に肯定してしまう見方の2つが大半を占めると思われますが、どうもそれらの見方以上のある種の問題をはらんでいるような気がしてなりません。それはもはや「時」の問題すらをも超えた、展開と自己パロディと再生産についての、かなり奇天烈な内容であるはずなのです。