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パソコン・リアリストの立場から
1970年−物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち
    中ザワヒデキ  マルチメディア・アーティスト

 5年前からすべての仕事をパソコンに切り替え、今は何をするにもまずパソコンのモニターに向かわなければ気が済まなくなってしまっている私ですが、そんなパソコン・リアリティがまだそれほど一般的ではないという事態には、ときどき困惑すら覚えるほどです。
 具体的にそれがどんなリアリティかというと、たとえば所有感のリアリティ。他人から貴重な生写真などをもらうと、有り難い反面、アナログであるその「もの」の置き場に困ってしまい、「どうしてデータでくれないの?」と内心思う事さえあるのです。つまりデータでもらうとは、自分のパソコンのデスクトップ上にそのデータのアイコンが現れることであり、そのアイコンを確認して初めて私は所有感を味わうことができるワケ。つまりアイコンだけがリアルな「もの」なのですが、こんな感覚、果たして理解していただけるでしょうか?
 しかしいったんそのような感覚(リアリティ)を自覚してしまうと、世のテクノ・アート事情としては、そのリアリティにきちんと根ざした表現のあまりの少なさに、今度は呆れてしまうばかりなのです。そのリアリティのみを純化し取り出してみせることが表現の基礎論として最重要のはずなのに、そのような方向性の作品ってほとんど皆無。ならば自分でやればいいじゃないかってわけで、私も少しは実作を制作してるつもりですが、どうも旧来の美術関係者にとってはパソコンと聞いただけで他人事と思われてしまうらしい。
 それはともかくとして、パソコンの中のリアリティを突き詰めると、「データがそこに在る」とはどういう事かという問題に行き着くわけです。さらには無目的的にデータが「在る」状態をどうしても現出してみたくなったりするのですが、そういった事を考えるにあたって、私が「先行類似企画」だと思うのが、ズバリ日本現代美術史における「もの派」。そのような観点から、今回のもの派の展覧会「1970年−物質と知覚」を興味深く拝見しました。
 会場ではもの派の主要な仕事を、代表作品(の再制作)で概観することができたのですが、そこで気付いた事は、「もの派」と言いつつも、実は相当にオブジェクト指向だったのではないかという事です。オブジェクト指向とはコンピュータ用語で、膨大量のプログラムを束ねてあたかも「もの」のように振る舞わせる発想の事を言います。たとえば本来プログラムでしかないデータを、デスクトップにアイコンとして置くという発想が、広い意味でのオブジェクト指向。そして「もの派」と言うからには「はじめにものありき」の立場の美術だと、以前は単純に考えていたわけですが、どうもそうではなく、様々な思考が絡み合いある臨界点に達した瞬間に「もの」として結晶した、そんな美術だったのではないでしょうか?
 たとえば鉄と綿を組み合わせた李禹煥の「構造A、改題 関係項」。それを「あるがままのものの放置」とか「特権的なもの」といった、従来のもの派解読の常套句だけでは説明しきれないと思うのです。カタログのテキストではもの派の一般論として「ものと言いつつ、ものの消滅、ものからの逃避が追求される場合もある」というような意味のことが述べられていますが、逆向きに「本来言葉の領域の事象が、ものというカタチを希求して現れてくる」というベクトルでこそ、たとえばこの作品は論じられるべきではないでしょうか? つまりは、先ほどから言ってる「オブジェクト指向」の一言で済む話なのだけど。
 そうですね、たまたま今回はパソコン・リアリストの立場からのレビューとなりましたが、時代が変われば見え方も変容してしまうものです。一昨年、同じ美術館で開催されたシュポール・シュルファス展を始め、最近1970年頃の美術が人気のようですが、以上の私のパソコン・リアリストという立場が極論だとしても、リアリティのありかの変貌によって、その時代の美術の意味が、今この時代、変わってきているような気がするのです。