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女子高生の名前は青紀
鷲見 麿(すみ・まろ)----"Aoki+Julia=青紀" 
    中ザワヒデキ  マルチメディア・アーティスト

 まず、女子高生の名前は青紀。油絵で、木々の間にたたずむ制服の女子高生を描くというそれだけのアイディアに、すでに食指を動かされる人もいるでしょうし、嫌悪感を抱く人もいるでしょう。それだけではよくわからず、もっと情報を得るまでは判断保留にしちゃおうとするズルイ輩も多いかもしれません。かく言う私もそうなので、実は今回の展覧会場に向かう名古屋までの足どりも、そんなに軽やかなものではなかったわけです。
 なんて言うのかな、この画家の作品を何年か前に図版で初めて見たとき、困ったジャパニーズポップだと思った記憶があります。そう、木々の間の制服の女子高生という、「それだけはやってはいけない」ステロタイプな絵画イメージ。それが明らかに確信犯によるイヤガラセならいいのだけど、どうもこの画家の場合は「本気なのではないか?」との疑念が拭えません。さらに、そのほとんど同じ100号大の絵画が13枚も反復されるに至っては、「今さら律儀にそんな反芸術の常套手段をするなんて」よっぽど純真すぎるのか、あるいはその裏をしっかりかいた、随分ひどいイヤガラセなのか? 仮に後者だとしても、みすみす降参するのもシャク。とりあえず方法論的にはポップアートの系譜なので、困ったジャパニーズポップだと思ったまま、画家の名前もしばらく忘れてしまっておりました。
 それがひょんな機会で熱心なスミマロファンから資料を借り受け、以前見た図版にも再び出くわしたりしてるうちに、どうしてもこの画家の展覧会には行かなければならないような気がしてきた次第。謎を見極めるためなんかではなく、とにかく「まずは行かねば」ってカンジ。意外と私も直感行動派だったのでしょうか?
 そして、女子高生の名前は青紀。会場のあちこちの画布上に、スミマロ絵画ではもうおなじみの青紀が、おきまりのポーズで定着されています。あれ?よく見ると足が無い。中にはキャンバスごと針金で縛られているものもある。しかしそれ以上の大事件がこの展覧会では起こっていて、つまり新顔のドイツ人ユリアが、しらじらしく青紀の手前に描かれていたりするのです。
 これは面白い。つまり以前見たステロタイプ絵画「青紀」の前にユリアが立ってますよ、という絵なのです。ピカソの晩年のテーマ「画家とモデル」流に言うと、今まで「スミマロと青紀」だったのが、「スミマロと『「アオキ」の前に立つユリア』」となったってワケ。変な展覧会タイトルにもこれで納得。
 しかしながら、どうしても気になるのが画家の筆のタッチ。ポップアートの方法論の持ち主のクセに、画面を客観的に全体を等価に描いてないのです。どこかしら思い入れのあるところ、たとえば今回はユリアの顔がおそらくなかば無意識的に強調されてしまっていて、これでは世界を私情を交えず客体化するスタンスのポップアートとはかなり異なります。つまり、「つい描きたいものを好きだから描いてしまった」という、一生懸命セーラームーンを描くオタク少年と何も変わらないのです。それが氏より約10才年下のポップアーティスト会田誠氏だと、「ロリータ趣味の恥ずかしいオレ」までをもさらに見事に客体化しているのだけど。
 いや、前言訂正。その、私情を客体化しきれないところこそが、鷲見氏の芸術の面白さというか、辛うじて成立させているギリギリのポイントなのかもしれません。どちらにしろ、美術史的には立石大河亞と会田誠のちょうど中間世代のジャパニーズ・ポップと思われる鷲見氏の芸術は、観賞するにはもっともスリリングで危うい類のもの。こんなに困らせてくれる芸術も珍しい。また展覧会があったらきっと私は行きそうで、つまりまた、困ってみたいのです。