覚書97.02.24 by 中ザワ
●「先見ゼミ」は、TigerMountain内のコテッジ「アロアロインターナショナル」の中のサブコテッジ「江美のサイパールーム」で行われているパソコン通信添削ゼミです。
●「先見ゼミ」の運営と企画発案は中ザワヒデキ&アロアロインターナショナルです。
●「先見ゼミ」の発案の経緯……具体的には中ザワが、当時アロアロインターナショナルにバイトに来ていた池松江美を先生にして通信添削ゼミをパソコン通信上で始めたら面白いのではないかと思い付き、タイガーマウンテン立ち上がりの際にイントロの式田氏に営業したところから始まっています。結局アロアロインターナショナルでコテッジを出して、その中の1つとしてそういう遊びのサブコテッジを置くことになり、「JAPAN ART TODAY」その他のサブコテッジと並列して「江美のサイパールーム」が置かれることになりました。また、当時パソコン通信をやったことのなかった池松に他のパソコン通信ならではの遊びのアイディアを出させたところ、10個近くアイディアがあがり、その中から「ベルジュラックS.O.S.」を選び、「ゼミ」と併せて2つの企画を1つの「江美のサイパールーム」内で始めるという形でスタートしたわけです。したがって当初「江美のサイパールーム」は先見ゼミオンリーのためのスペースではありませんでした。しかし「ベルジュラック」がふるわず、すぐに先見ゼミオンリーとなったわけです。
●運営方法……出題する先生にはアロアロインターナショナルが給料を支給しています。問題の出し方等について中ザワが細かく指導することもあります。
●先見ゼミ第一回はまだよく作法がわからず、問題文をPICTにし、先見ゼミ第○○回などの番号打ちもなされなかったが、中ザワの指導により切取線方式などのシステムに改められた。
ゼミのシステムが落ち着き始めたのは、大体第10回くらいからです。
●まだゼミ受講生に出版の話はしてません。回答者の答案の著作権は受講生にもあります。なので出版前に調整が必要です。
●「先見ゼミ」細かいいきさつ……
1)93年頃だったと思うが、池松が、妹の入会している進研ゼミのお便り欄を面白がって代筆しているというお便り欄の切り抜き集をアロアロに持ってきて、中ザワに見せたりしたことがありました。その時はたんに面白がってるだけでした。
2)94年2月、通信添削ゼミをテーマとした池松江美の初マンガ作品「ザッツ先見ゼミ」が、ゴメス主宰マンガグランプリに入賞。
3)94年夏、ケイネットのリニューアルに際して中ザワがアイディアを求められ、パソコン上でこそ通信添削をするべきと提言し、その際に「パロディテーストの」遊びとしてのパソコン通信添削ゼミという形態をもさらに思い付き、そのアイディアもケイネットに提言。
4)94年夏、中ザワが連載しているイントロマガジンがタイガーマウンテンを立ち上げるという通知が来て、中ザワは遊びとしてのパソコン通信添削ゼミを是非実現したくてイントロ社に売り込みに行く。具体的には通信添削ゼミの先生として池松江美を想定していた。
5)94年10月タイガーマウンテン立ち上げとともに「先見ゼミ」も始動。ゼミの名前は「ザッツ先見ゼミ」から使わせてもらうことにする。池松自身の発案により、先生はアストラル界に住まう「赤ペソ先生」を名乗り、媒体は池松江美であるという形をとった(生徒の方が池松より10も年上だったりしたわけです)。
6)95年春、ケイネットに営業に行き、アロアロインターナショナルで会議室を運営することになる。その会議室の名は「先見ゼミ」となり、95年4月より始動。タイガーとケイネットの2ネット上にまたがるプロジェクトとなり、連動して出題された。この時ケイネット側からの要請により中ザワヒデキが媒体となる「黒ペソ先生」も誕生。
7)95年7月末日、ケイネットがコペルニクスへと体制を移行したことにともない、同ネット上での「先見ゼミ」も終了。
8)そののち、池松の負担減のため「緑ペソ先生」(媒体日比香苗)、「金ペソ先生」(媒体古山啓一郎)が増えて現行の形態へと落ち着く。
9)随時先見臨海学校等の課外活動を行っています。
●先見ゼミの通し番号は第19回まで行ったところ95年春の新学期となりケイネットでのサービス開始に伴いふたたび第1回に戻しそのまま第39回まで行きましたが、次の96年春の新学期には折角だから累計で行こうということとなり、第39回の次に第59回へと飛びました。
2015-06-20
- 「先見ゼミ」の当時の覚書(伊藤ガビン氏宛提出時)を発掘し掲載。
- #n次元 #文献研究 前回の中ザワヒデキ文献研究 2015年度第02回6月10日 講義用覚書 辛酸なめ子x中ザワヒデキ2人展「n次元」 http://aloalo.co.jp/nakazawa/2015/06a.html