「ヘタうまの源流としての反官フォーヴ」レジュメ




01.jpg 01.pdf 口上、プログラム、自年譜
02.jpg 現在から見た歴史、歴史法則主義
03.jpg 20世紀美術における「生→死→死後」のサイクル
04.jpg 戦後日本美術史の見取り図 (1)
05.jpg 戦後日本美術史の見取り図 (2)
06.jpg 色彩画派としてのフォーヴィスム、色彩論争、色彩VS形態
07.jpg 二項対立図式、色彩VS形態
08.jpg 年表、団体
09.jpg 速水御舟、黒田清輝、中村不折
10.jpg フュウザン会解散、新南画動向
11.jpg アンフォルメルと東洋、ヘタうま
12.jpg 「ヘタと生」論争

上記は、下記レクチャーで私が配布したレジュメ資料です。

LESSON 06 日本洋画史における一九一三年 −ヘタうまの源流としての反官フォーヴ−
ゲストスピーカー 中ザワヒデキ
2008年12月13日(土) 14-19時 workroom*A
http://www.lessons-in-progress.org/
http://www.lessons-in-progress.org/site/next_lesson/08_1213.html

 西欧美術における1913年は主情主義から主知主義への転換点であり、ドイツの表現主義グループ「ブリュッケ」の解散と、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチらの抽象絵画の創始が象徴的である。では日本の1913年(大正2年)はどうであろうか? 萬鉄五郎が「裸体美人」を発表し、岸田劉生、斎藤與里らが「日本的フォーヴ」の魁となったフュウザン会を結成したのが1912年で、翌1913年は同会解散の年に当たる。急進的画家たちによる文展第二部(洋画部)を二科制とする建白書の提出は1913年だが、当局に拒否され在野団体として二科会が設立されたのは翌1914年である。「1913年は情から知への転換点」という仮説はひとまず措き、反官要素を併せ持つ主情主義としての「日本的フォーヴ」の最初の高まりとして1913年前後の時代をとらえるならば、そういえば私にも言いたいことがあった。
 私は歴史法則主義の立場であり、循環史観論者である。日本現代美術史としては批判的に語られがちな1950年代後半の「アンフォルメル旋風」と、サブカルチュア文脈なため日本現代美術史には組み入れられていない1980年代前半の「ヘタうま」は、反アカデミズム的主情主義エネルギーの噴出として同一直線上に並んでいる。さらにそれらの源流として、1910年代の「日本的フォーヴ」を考えるのだ。西洋受容と模倣の問題、東洋アイデンティティと南画と書画とグラフィック、繰り返される「ヘタ」と「生」の論争ほか、さまざまなテーマが見えてくる。
 もともとこのLESSONという会では、「1913年という時代をよりリアルに感じるため、1913年以降のことには触れない」を原則としていたとのこと。しかし主催者側のほうから私に、「中ザワさんのときにはこの原則を破ろうと思っています」と申し出てくださった。ご高配に感謝します。2008年現在、美術界はヘタうまの対極であるマニエリスムの全盛期だが、であるからこそ、やがて到来するであろう第四の「反官フォーヴ=ヘタうま」を占いたい。


2009-04-04 作成。
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- 上記のテーマについては、「1980年代のポップ・イラストレーション」刊行記念トークイベント (2009年3月19日、ナディッフアパート) 等でお話しするたび、多くの方に御興味いただいております。
- 私は「ヘタうま」と美術史を接続する主張を1980年代からおこなっています。下記文献も参照ください。
中ザワヒデキ著「近代美術史テキスト 印象派からポスト・ヘタうま・イラストレーションまで」第1、14、15章 (トムズボックス、1989)
中ザワヒデキ著「現代美術史日本篇」第5章 (アロアロインターナショナル、2008)
雑誌「美術手帖」2005年7月号「特集日本近現代美術史」第5章 中ザワヒデキ=文「還元主義から新表現主義へ」
雑誌「イラストレーション」1995年11月号 中ザワヒデキ連載「その後のバカCG」第2回
滋賀県立近代美術館開館20周年記念展「コピーの時代」2004 図録掲載論文 椹木野衣「引用と複製−その臨界点 日本・シミュレーショニズム・20世紀末の一断面」
(ちなみにこれとは別の文脈として、「ヘタうま」とテクノを繋げたものとして「バカCG」を1990年代前半に提唱し実践した経緯もあります。)
- 上記レクチャーのテーマは、日本における「ヘタうま」の系譜を大正から昭和中期、末期へと辿ったものといえます。たまたま渋谷区立松濤美術館で先日開催された「素朴美の系譜」展 (2008年12月9日-2009年1月25日) は、副題を「江戸から大正・昭和へ」とし、日本美術のアイデンティティをうまさよりはヘタ風味に置こうとする内容で、私としては、上記レクチャーの前史に相当するテーマに思えました。ある方から伺った話では、本展を担当された同館学芸員の矢島新氏は、展覧会題名を検討するさいの候補に「ヘタうま」の語を考えたこともあったとのことです。しかしご本人にお会いして訊ねたところ、1980年代に日本のイラストレーションの文脈で興ったムーヴメントとしての「ヘタうま」については、ご存じないとのことでした。湯村輝彦氏に発する「ヘタうま」の語が、1980年代のイラストと無関係に一般的な国語としてすでに市民権を得ていることを実感いたしました。
(ちなみに私は印象派から始まる西洋の近代美術史も「ヘタうま」と通底するものとして考えており、拙著「近代美術史テキスト」第1章の冒頭でヘタについて言及し同章図版に1980年代イラストの中村幸子氏を敢えて挿入したのはそのためです。そして都築潤氏も強調しているように、欧米の新表現主義よりも日本のヘタうまが先行していたことが指摘されなければなりません。また、新表現主義よりもシミュレーショニズムが先行していたという椹木野衣氏の言い方に付け加えるならば、日本のヘタうまは最初からシミュレーショニズムとして出発していた…湯村輝彦氏はすでにアメリカ人も描かなくなったアメリカン・フィフティーズを描くことでヘタうまを創始した…ということも思い出されるべきことです。)

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